GL+エロ+ファンタジー/すごく残酷/ピヨヒコ
私が自分の才能に漠然とした限界を感じて、GL製のギターを音楽室のピアノの上に投げ捨てたとき、彼女は高校生には到底似つかわしくないであろうロシアの昔話を読んでいた。窓から流れ込む斜陽に彼女は霞んでいる。世界が赤かった。音楽室の空気も、ジャズ・コーラスで膨らむハウリングも、私の左手の指先に広がる痺れも、何もかもが赤かった。もちろんそんなものに色など着くはずもないけれど、しかしそれでも私と彼女の間に広がる世界は赤色だった。私が赤色だと決めたのだから、恐らくは確実に。
◇
私はジャズ・コーラスの電源を切った。だめだな、どうもいっこうにギターの技術が上達しない。いくら指先を動かし弦を弾き飛ばしても、自分が出したい音が一つも出てこない。気持ちに技術が追いついていないのか、あるいはこれが私の限界なのか。ああ、限界か、嫌だな、限界。
考えを逸らすため、ロシアの昔話を読む彼女を見た。西日に染まる彼女は、私が目を向けることを知っていたかのように、その双眸をこちらに向けていた。息を呑む。目を逸らす。口をつぐみ、何も言えない。
そんな無様な私を見て、彼女は口を開いた。
「今日も、誰も来ないね。私とキミだけじゃ何もできないのに」
私は考える。彼女は何の話をしているのだろう。誰も来ないね、そう、誰も来ない。放課後の音楽室には、私と彼女以外の誰も来なくなってしまった。今年の猛暑もようやく落ち着き、セミの鳴き声もよりメロディアスに変化したというのに、私と彼女が所属する軽音楽部に新入部員は入ってこなかった。春のころは数名ほど新入生がやってきたが、なにか思っていた軽音楽部のイメージと私達の活動には大いなる相違があったようで、梅雨が始まったころにはあっさりと辞めていったのだ。
私は言う。
「もう来ないんじゃないかな。良いけどね別に。巧くなろうとしない奴は来なくて良い」
彼女はロシアの昔話の本を閉じた。深い緑色の表紙も夕日に赤く染まった。そうして私から目を逸らし、ピアノの上に投げ出されたギターを見ながら、
「そっか。私は来て欲しいけどな。楽器は上手い下手じゃないから」
と言った。
そうかもね、と私は呟いた。
「ところで、その本どんな内容なの? ロシアの昔話って読んだことないな」
彼女は閉じたばかりの本に目を落とし、すこしだけ唸ってから言う。
「なんかよく分からない。どこか知らないところへ行って、なにか知らないものを探したり、そんな内容」
私は思わず「なにそれ」と笑った。
「きっとアレだよ。意味なんて無いんだよ、昔話には。私達が好き勝手に意味を見つけて、やりたい放題解釈するんだと思うな」
それだけ言うと彼女は立ち上がった。
彼女は音楽室の窓際に立てかけてあったギターを持ち上げ、それを少し重たそうに抱えて、椅子に座る私の前に立った。夏服のワイシャツ、その胸の間にギターのネックが宛がわれ、膨らみが少しだけ誇張された。窓枠の陰に彼女は収まり、今は朱から開放されている。視界には私を見下ろす彼女と、白いギターだけが広がった。私と同じくらいの身長。私と同じくらいの体重。私と同じ血液型。私と同じ音楽の趣味。私と同じ小説の趣味。私と同じ楽器のメーカー。
私と違う考え方。
彼女はとろけそうな瞳で私を見下ろしながら言った。
「ね、ギター教えて。もっと上手になりたいの」
嘘つき。私は思う。
本当は楽器を巧くなる気なんてないくせに。
彼女はいつも通りに嘘をついた。その嘘がいつから当たり前になったのか、私はよく思い出せない。思い出そうとすればきっと思い出せるのだろうけど、始まりなどというものをいくら思い出したところで、今が変わるわけではないのだ。私は今、彼女が口にした言葉に喉の奥を乾かしている。この事実を消し去ることは、発端を掘り起こそうが終端を想像しようが、もう無理、不可能。
だから私は頷いた。いいよと言って頷いた。
◇
落日の色が先ほどよりも随分と深く音楽室に充満している。壁にかけられた名前も知らない作曲家達は、何回この夕日を見てきたのだろう。
彼女は床にあぐらをかき、右の太ももにギターのボディを乗せた。私はギターを構える彼女の背後に腰を下ろし、彼女の小さな体を両足で緩やかに挟み込んだ。体が密着し、お互いの体温が薄いワイシャツを渡って混じり合う。位置を正す振りをして腰を彼女に寄せると、私の胸が彼女の背中に潰れて形を変えた。彼女は小さく笑い声を聞かせた。どうしたの? 聞くと彼女は、あったかいね、とだけ言った。私はそれに頷くだけで何も言わないことにした。彼女の右肩に顔を乗せると、甘い香りが脳を溶かした。
「香水変えた?」
「うん」
「何に?」
「ランバン」
それからほんの刹那、私と彼女の間には逡巡を孕んだ静寂が響いた。
「甘い匂いだね」
私が言うと、彼女は「キミも甘い匂いがするね」とおぼつかない口調で私をくすぐり、「香水とかしてないのに」と付け加えた。
私の匂いとはどのようなものだろう。自分の癖に気付かないことがあるように、自分の匂いというものを私は今ひとつ知らなかった。彼女は甘い匂いというが、果たしてそれは本当に甘い匂いなのだろうか。彼女の言う甘さとは、いったいなんだろう。
黙る私を気にしないように、彼女は右手の指でギターの弦を鳴らした。低い音が私達のお腹を振るわせる。この振動は、彼女の体を貫いて私を震わせたのだ。そう思うと、それは少し官能的で些細な非現実で、ちっぽけな幸福感を内在する音のように思えた。
「今日は、どんな練習する?」
私が聞くと、彼女は「この前の続き」と短く言った。
なんだっけな、この前の続きって。それは、どちらの続きを言っているのかな。ギターの練習の続きか、それともこの密着の先にある行為の続きか。もちろん前者だろう。ギターを練習するのだ。この体勢も、指遣いを教えやすいから。
「いいよ、じゃあ、Aの和音ね」
「Aって、ラだっけ? シ?」
「ラだよ、シはB」
彼女は頷き、左手の人差し指を弦の上に置いた。それから一つずつ音を繋げていく。
「できてる? 音、ずれてない?」
彼女は体重を私に預けながらそう訊ねてきた。柔らかさが私にまとわりつく。
「うん。じょうず。この前は、Aやったんだよね」
彼女は首肯した。柔らかい髪の毛が私を撫でる。ああ、きもちいいな。
「じゃぁさ」
彼女は、いつもとちょっと違った艶っぽい声を出した。
「今日は、B……教えて?」
私は鼓動が極端に速くなっている事に目をつぶり、努めて平静を装い、わざとらしく深呼吸をして、彼女の左手に自分の左手を重ね合わせた。私と同じくらいの手の大きさ。私より少しだけ細い指が羨ましい。
「これがB、ドレミで言うとシの音ね」
彼女の指を誘導する。私の息遣いに、彼女はくすぐったそうに身をよじった。
「ちゃんと聞いてる?」
「……あんまり」
彼女が私の左手に指を絡めてくる。手の薄い皮膚をゆっくりと撫でられたので、私は思わず息を呑んだ。彼女は何度も私の左手を撫でた。指と指の間をなぞる様にしたり、くるくると円を描いてみたり。
「もう……聞かないなら、教えないからね」
「教えてよ」
「教えたじゃん」
「このBじゃないかも」
嘆息する。
ほらね、嘘つき。
最初からさ、気持ちいい思いをしたかっただけじゃん。
私もだけど。
◇
私は人生で二度目のキスをした。
初めてのキスは、彼女にAの和音を教えているときだった。それとなく振り向いた彼女は、何気なく私の唇を塞いだ。抵抗する気はまるで起きなかった。柔らかさと、唇の奥に微かに感じる唾液の湿っぽさが、私から動く権利を奪ったのだ。それは紛れも無い快感だった。誤魔化しようの無い恍惚だった。同性とキスをすることに、私はさほど違和感を覚えなかった。
そして今、三度目のキスをした。今までよりもずっと深く、ずっと柔らかく、目じりが熱を帯びるキスだった。
「ねぇ、キミはさ、どうして毎日ギターを弾くの?」
私から少しだけ唇を離し、彼女はそう聞いた。私は二人の唇の間に透明な液体が繋がっているのを感じながら答える。
「上手になりたいから」
「だから、色んな曲弾くの?」
「うん」
彼女の手が私のワイシャツのボタンを一つはずした。
「だから、ミッシェルの後にハッシュサウンドをやったりするの?」
「うん」
ワイシャツの中は私から見えなかったが、それでも彼女の手が私を撫でているのが分かった。心臓が止まりそうになる。喉が渇いて、お腹が熱い。
「なんだか残酷な小説を読んだ後に絵本を読むみたいだよね、それって」
手が背中に回り、器用に下着のホックを外した。緊張を失ったそれが、紐だけで肩にかかる。
「どっちも残酷かもよ。絵本も、その小説も」
その後は言葉が続かなかった。今まで味わったことの無い快感が、私の胸から全身に広がっている。今ここで何かを話したら、それはきっと別の意味を持つ言葉になってしまうのだろう。なんだかそれは怖かった。とてつもなく怖かった。
彼女は私を撫でていなかったもう片方の手を、すこしだけ躊躇って、スカートの中へ入れた。
もう私はなにも言えない。
体の奥底から上ってくる波に、唇を固く閉じて抗うことしかできなかった。少しでも油断すれば、きっとそれは声になる。辞めてほしいとか、もっとしてほしいとか、怖いとか、気持ちいいとか、不安とか、そういったものが声になってしまう。
それがいやだから、私はただひたすらに身をよじり、必死に抵抗する振りをするしかないのだ。
そんな私の韜晦を知ってか知らずか彼女は私を撫でながら口を開いた。
「ねぇ、私さ。ギター上手になれるかな」
え? と答えた私の声は、なんだか震えているような喜んでいるようないやらしい音程だった。
「いろんなジャンルを弾けるようになれるのかな。誰かを感動させる演奏ができるのかな。今更こんなに練習しても、キミみたいにずっと上手な人がたくさんいてさ。私がどんなに頑張っても、その人の足元にも及ばないんだ。なんだかそれをこの先続けていくのって」
彼女は私の中に指を入れた。
「すごく残酷」
私は始めて大声で喘いだ。
◇
気付くと夕日は沈んでいて、私と彼女は薄暗い教室で抱き合っていた。息を荒げ、いやらしい匂いを醸し出しながら、しばらく何も話さなかった。
私は快感の波の後に残ったぼやけた痛みに辟易しながら彼女に言った。
「音楽なんてさ、聴くだけでも良いんだよ?」
彼女は指先をハンカチで拭きながら言った。
何を言ったかは、まるで覚えていない。
しかし彼女は、音楽をやりつづける理由を、表現を辞めない理由を、何かしら言ったのだ。
それについて私は何も思わなかったけれど。
以上
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