目を閉じるといつも同じ光景が目に浮かんだ。
窓から見える海の景色、それを背景にして立つ女の子。
海に反射した光が窓から入り込み、逆光となって彼女を映し出す。かすかに輪郭は分かるが、はっきりとした表情は分からない。
なぜこんな光景が浮かぶのだろうか、自分でもよく分からなかった。
小学三年生の頃、僕は生まれて初めて事故にあった。友達と野球をしていて、公園の外に飛んだボールを追いかけて道路を走る車と衝突したのだ。
骨は何本か折れたが、後々の生活に支障を来すほどではなく、現在まで僕は元気に生活している。
ただ、唯一変化があるといえば、その光景が目を閉じるたびに浮かぶことだった。
でも別に何か問題があるわけではない。むしろまぶたの裏に映るその光景はあまりにも美しく、酷く疲れたとき、僕は度々目を瞑ってその光景を見るようにした。
その光景の変化に気付いたのは、僕が中学に進学した時だった。
僕がそれまでに見ていた光景は、肩までの長さの髪の少女が、ランドセルを背負って窓からの光を浴びながら立っている姿だった。
もちろん逆光で彼女の姿がはっきりと見えるわけじゃなかった。でも、どんな格好をしているのか、何歳くらいなのか、表情はさすがに読み取れないまでも、それくらいは把握することが出来た。
まぶたの裏に映る彼女は当時の僕と同じくらいの歳だった。
それが、僕が進学すると、彼女の姿も変わっていたのだ。彼女の背負っていたランドセルは僕の中学で配布される物と似たような通学カバンに変わっていた。服装も僕の中学の制服に似ていた。
彼女が僕の中学の女子と同じ格好をしているのではないか、そう思えた。
その年から、彼女の姿は季節ごとに変わるようになった。夏なら、夏服、秋はカッターシャツの上にセーター、冬はその上からさらにブレザー。春になるとセーターがなくなり、またブレザーに戻っていた。服装は変わるが、彼女が立っている姿はずっと同じままだった。季節ごとに同じポーズで撮られた写真、それが僕のまぶたの裏にずっと張り付いている。そんな感じだ。
彼女が僕と一緒に成長しているのが分かった。
全ての状況が変わったのは、高校に入ってからだった。
僕が高校に入ると、彼女によく似た人物が居た。同じクラスで、僕の後ろの席に座っている、名前は一之瀬ゆいと言う女子だった。
その頃まぶたの裏に映る彼女は、僕の高校の制服を着ていて、よく高校生が持っているような学生カバンを肩にかけていた。今度は窓枠に手をついて、身を乗り出すようにして窓から外を眺めている。彼女の髪の色が外から差し込む光に照らされ、少し茶色いことが分かった。染めている訳ではなく、少し色素のうすい黒といった感じだ。
一之瀬も同じ様な髪の色をしていた。一之瀬はまぶたの裏の彼女と同じく、肩までストレートのセミロングで、持っているカバンのタイプもよく似ていた。
ただ、一之瀬自身は僕のことなど知らないようだった。席が近くということもあり、彼女とは度々会話したことがあるが、特に変わった様子もなかった。それにもともと僕たちは付き合う友達が全然別だったので、月日が経つうちに一之瀬とは必要時以外会話することも無くなってしまった。大して関わりのないクラスメイト。僕等の関係はただそれだけだった。
一之瀬が彼女だという確信はなかった。ただ、背格好が似ているというだけだ。僕はあの風景に映る彼女の顔を知らない。
結局その時は一之瀬は人違いだった、と言う結論に達した。
そもそも彼女が一之瀬だったとして、一体僕はどうするつもりだったのだろう? 何かを話すのだろうか。いや、たぶん違う。
僕は本当にまぶたの裏に映る女の子の顔が見てみたかっただけなのだ。その声や、表情、どう言う反応をして、どういう風に動くのか。
僕の中では、いつの間にかまぶたの裏の彼女の存在は大きくなっていた。それはもしかしたら恋と呼ぶのかもそれないし、ただの執着心なのかもしれない。どちらでも良かった。ただ僕は、まぶたの裏に映る彼女が、実際に存在して欲しかった。
高校生活はそれなりに楽しかった。友達も出来た。部活も陸上部としてそれなりに打ち込めた。学校行事もクラスで協力して良いものを完成することが出来た。大学も無事に自宅から通える国立に合格することが出来た。
だけど、卒業する時、やはり心の中に何か引っかかる物を感じていた。
充実していた。でも、何かが足りない。そんな気持ち。
大学に入ると、まぶたの裏に映る女の子は私服になった。彼女の服装は毎日のように変わり、学生であることを容易に想像させた。
その頃になると、彼女は毎日のようにポーズを変えるようになっていた。寝転んだり、体育座りをしていたり、窓の外に身を乗り出して叫んでいるような様子もあった。それはまるで写真を通して感情表現をしているようだった。一枚の写真で、喜怒哀楽を表現している。彼女の感情がつかめる様になった気がした。
着実に、僕と彼女の距離は近付いていた。
僕はまぶたの裏の彼女の事を何も知らない。それでも、僕達は互いの空気感をよく理解出来るまでに歩み寄れているのではないだろうか。
大学で入ったサークルで、偶然一之瀬と再会した。再会した、といっても最後に会ったのは一ヶ月ほど前にあった高校の卒業式だったのでそれほど懐かしくもなかったが、それでも驚いた。僕は一之瀬が同じ大学だと知らなかったからだ。それは彼女も同じ様だった。
彼女の着ていた服は、まぶたの裏の彼女のそれと、よく似ていた。
同じ高校だったこともあってか、昔より一之瀬とよく会話するようになった。仲良くなると彼女は気さくで話しやすかった。
「なぁ」ある日部室で僕は彼女に尋ねた。「海の見える家に心当たりない?」
「へ? なにそれ?」彼女は僕の顔を見てきょとんとした。「何でそんな事聞くの?」
「いや、何となく」
「心当たりがない訳じゃないんだけど……」
「けど?」
「ちょっと理由が変って言うか、聞いたらたぶん笑うと思うよ」
「別に笑わないよ」僕が言うと一之瀬はしばし逡巡した様子を見せてから口を開いた。
「私さ、小学生のころ事故にあったのよね。三年生のころかな。その日からさ、何かまぶたの裏に男の子の姿が見えるのよ。窓から海が見える部屋でね、その子の顔は逆光で分からないんだけど、ちょっとずつ変わってきてると言うか……。ああ、もう、上手く言葉に出来ないや。忘れて、今の」
瞬間、理解した。
「いや、分かるよ」
「えっ?」
「分かるよ」
僕が頷くと、彼女は黙ってこちらを見つめた。そして「そっか」とだけ言って、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべた。
たぶん彼女は、まぶたの裏に写る男の子が誰か、気付いていない。予感はしているかもしれない。でも、気付いていない。
それでもいい。
彼女はこんな風にして笑う。それが知れたから。