境界より滲み出すかのような揺らぐ朱の空。
名残を惜しみつつも、群青の波に削られる朱色の空。
僅かな希望に手掛けるように、薄雲に痕跡を残し沈む朱の空。
だんだんと日は長くなり、陽はその領地を広げている。
威光の元、陽の恩恵は生命に喜びを育むが、また同時に訪れる落日も浮き彫りになる。
今年は雨が少なく、この時間になっても涼しさは感じられない。
農家のみなさんの嘆きが聞こえてきそうだ…
今日も一日が終わろうとしている。
実際には、まだまだ眠りにつく時間じゃないんだけど、家に帰ってきたってことでそう認識してしまう。
食事をして、風呂につかって(もっぱらシャワーで済ますんだけど)、好きなTV番組をみて、課題に手をつけて、日が変わる前にベットに入る。
いつもの感覚なら、まだ一日は1/3が残ってる。
でも、今日はもう一日が終わろうとしている。
窓から見える木々が、これから来る季節に向かってその両手をめいっぱい広げていた。
部活も大きな大会を前にして、ことさら朝練に力が入りだした。
強化月間などと部長が言い出すものだから、いつもより1時間も早く家を出る羽目になってしまった。
慣れてしまえばどうと言う事は無いなんて思っていたけど、予定期間の半分を終えてもまだ体は思うようには動いてくれやしない。
あと半月。目覚ましへの八つ当たりは続くんだろうな…
ぶつぶつ言いながらも我が学び舎に近づくと、不思議と体に力が伝わりだす。
なんだかんだと言いながら、喜んでるって事ですか。青春だね。
グラウンドには既に他の運動部が顔を見せている。
うちはスポーツ強豪校ってわけでもないけど、なぜだかどの部も熱心に取り組んでいる。
かく言う我が部もそれに同じく。七日前までは。
今年の地区予選は、部長と3年の先輩方ががんばったおかげでそれなりの成績を出せている。
自分の成績もまぁまぁといったところか。
おかげで睡眠時間に支障をきたしているわけだが、悪い気はしない。
次の予選で上位に入れば、先輩達と大会に出場出来る。
そう高くない水温に耐えながら、毎日積み重ねた練習はちゃんと成果になって現れてるってことかな。
予選までにタイムをもう少し縮めたいってのは欲張りなのかもしれないけど、フォームの見直しを始めてからこっち、面白いように結果が良くなっている。
部長にも満面の笑顔で褒められるし、ちょっとくらい期待されてるのかな?って思うのは許されるだろ?
ロッカーに荷物を入れて、ゴーグルを手にリップに顔を出した。
いつもと一緒の朝。
2週間毎日続く焼き直しの朝。
もしかしたら
この言葉が欲しくて毎朝ここに来てるのかもしれない。
そんなことを考えながら、陽射しを避けつつテントに向かった。
「おはよう。今日も一番はあたしがもらったんだから」
「ああ、おはよう先輩。勝ち負けなんていつからつけてるんだっけ?」
記録用のノートとストップウォッチ数台を手に、こちらを振り返る先輩に挨拶を返した。
「もちろん初日から。13戦12勝、もっか独走体勢ってかんじ?」
「聞いてない、聞いてない」
苦笑を漏らしながら大げさな身振りをしてみせると、ややご不満といった面持ちで人差し指をピッと立ててこちらに詰め寄る先輩。
「もう。そんなことじゃダメじゃない。いつでも勝ちに貪欲でアレ!って顧問もおっしゃってるでしょ?」
「朝練に来る時間も込みですか」
そうです。と誇らしげに腕組みをしながら、先輩はウンウンうなずいてる。
あの顧問なら言いそうだな。実際。
「部長たちまだ来てないんですか?」
「いつも通りよ。変に余裕が出ちゃってからだんだん遅くなってるわね。来るのが」
プンプンと擬音でも聞こえそうな身振りで、先輩は腕組みを崩さない。
「待ってたって仕方ないし、アップ始めましょうか」
「あい。…そんな見つめられると体動かしにくいんですけど…」
ん?なんで?なんて言いたげな表情でベンチに腰掛ける先輩。
そりゃ一人で体操してるのって間抜けに見えないか?
「ほらほら。アップしっかりしないとケガしちゃうよ~」
「…」
仕方なく背を向けながら体をほぐしていく。
ジリッと汗が滲み始めた辺りで、体の稼動域が広がったような感触が掴め出した。
ん。こんなもんかな。
「OK?じゃ、続けて軽く流すところからいってみよ」
「お願いします」
先輩もタイミングを見ていた様で、こちらの準備が整う頃合でスタート台に近づいてきた。
力を抜いて台に上がる。
アップのラストに1000mを消化。
しっかりと体が暖まったのを確認して上がる。
自分の体の状態を確認するように動かしてみる。
「はい。OK~問題ないみたいね」
「まずまずってところですかね」
「だね。じゃ、インターバル入れて2本行ってみる?」
「はい。タイムの方、お願いします」
満面の笑みを浮かべながら、親指と人差し指で円を描いてうなずく先輩。
朝なんだから無茶はなしね?と付け加えられる。
ちょっと恥ずかしくて背を向けてしまう。
まいったな…
「じゃ、そろそろいってみよっか?」
「はい。スタートおまかせします」
台に上がりながら息を整える。
静かに、静かに集中を高める。
「…位置について」
手を淵に掛け、力をつま先に集中する。
「よーい、スタート!」
合図と共につま先の力を爆発させる。
イメージで描いた軌跡をなぞりながら、最も無駄のない形でスタートを切る。
グラウンドから聞こえる号令などが耳から追い出され、光と風の世界から薄皮一枚向こうの密度の濃い世界へとすべりこむ。
まだ冷たさを感じる抵抗を掻き分け、体を前へと押し出していく。
壁を視界に捉えながら冷静に距離を測りターン。
充分に縮めた足を開放しながら、今一度体を前へと蹴り出す。
雑多な思考を廃してひたすら前へ。前へ。
「…はい!」
顔を上げると、ストップウォッチ片手にこちらを見下ろす先輩の影。
逆光で表情が見えない。
「どうですか?」
「うん。いいかんじかな。平均よりちょっと上」
リップに上がりながら先輩の手元を見る。
まずまずか。
「じゃ、もう一本いってみよっか」
すこしのインターバルを入れて、もう一度スタート台に向かう。
と、
「おお、今日もやってるな!」
「あ、部長。おはようございます」
始業まで30分という時間で、部長以下3年の先輩達がやってきた。
もちろん制服のまま。
「ああ、おはよう。どんなかんじだ?」
「おはようございます。先輩、また朝練スルーですか」
「すまんすまん。どうも朝は苦手でな」
「ハァ。部長が朝練やるって言ったんじゃないですか…」
頭を掻きながら笑ってる部長。
結局、朝練にみんなが真面目に来たのは最初の7日間だけ。
こうやって始業前に顔を出してくれるだけいいほうか。
今となっては同級のやつらは本練だけ。
こうして朝の顔出しをしてくれるマネージャー以外は、誰も朝練に出なくなっていた。
オレを除いて。
「本練でしっかりやるから。まぁ許してくれ」
な?と肩を叩かれながら、ため息混じりに了解の意を示す。
「マネージャーも毎朝すまんな」
「いいんですよ。どうせいつも早く登校してますから」
こちらが体をほぐしてる間に、先輩は備品をかたしだしていた。
部長と先輩が本練の内容などを話してるのを横目に、オレは着替えにロッカーへと向かって歩き出していた。
最初はみんなが顔を出していた朝練も、今ではオレとマネージャーしか来ていない。
日が長くなってからは、本練の時間延長が許可された。
そのせいもあって水温の低い朝はみなが避けるようになっていた。部長以下3年も含めて。
それでも、朝練をしちゃいけないって訳じゃない。
だからこうして毎日来てる訳だし。
……
嘘だな。
それだけじゃないのは自分でも良くわかってる。
自嘲気味に笑ってオレは着替え終えた。
部長、先輩達に挨拶をしてロッカーを出る。
頭を切り替えながらオレは校舎に向かっていった。
体が冷えたからだろうか。
午前中の授業は眠気を抑えるのに必死だった。
体力も適度に使っていた為か、3限終了を待たずして腹は限界に達していた。
4限が終わり、待ちかねたとばかりに教室を後にする。
いつもの様に食堂に行き、お気に入りのB定食を頼む。
む、少し足りないかも。
残りの2限は諦める。
となりの席の友人に有事の際には声を。と頼み込んで意識を閉じた。
英気を養って放課後を迎えた。
2度ほど頭頂部に教科書の一撃を食らったが、それはささいなことだ。
足取りも軽くロッカーまで来ると、部長と顧問が待っていた。
「すまんな。今日は臨時で休部にする。自主練するも帰るも自由だ」
話を聞いてみると、大会前に近隣にある3校で合同練習をする為、その打ち合わせに顧問と部長が伺うそうだ。
丁度出発前に出会ったということらしかった。
「というわけだ。鍵の管理はマネージャーに頼んであるから、あとはよろしく頼むぞ」
「わかりました。お疲れ様でした」
言って頭を下げ、顧問と部長を送り出した。
ロッカーを覗いてみたが、当たり前のように誰もいなかった。
暫く思案してみたが、誰も来ないなら…と帰宅を決意した。
ウェアを袋に仕舞い、帰り支度を終える。
ロッカーを出てグラウンドに差し掛かった辺りで、聞きなれた水音が耳に入った。
パシャ
ん?不思議に思い振り返ってみると、プールには誰かの手が見える。
振り上げ、潜る。また振り上げ、また潜る。
誰かいたのか?
そう思って引き返した。
ウェアには着替えず、制服のままリップに上がった。
「あれ?先輩だったんですか?」
「あ、びっくりしたぁ~」
プールにいたのはマネージャーだった。
いつもはジャージでリップにいるだけの先輩がウェアで水の中にいる。
ドクン
「やだ、気が付いてたなら教えてよ~いつからいたの?」
「あ、いや、今戻ってきたところです」
顔に血が集まるのがわかる。
ヤバイ。なに赤くなってんだ…
「みんなが練習しないで帰るっていうからさぁ~なんか泳いじゃおうかなって思っちゃって」
「…」
「キミも帰るの?じゃ、待ってて。あたしも上がるから~」
「あ、はい」
く…顔がまともに見れない。
なんだってあんなに…
暫くロッカー前のベンチで先輩を待つ。
呼吸を整えて。心を落ち着けて。
深呼吸だ。落ち着け。
自分に言い聞かす。
「お待たせ~ごめんねぇ」
「あ、いいですよ。どうせ予定なんてなかったし…」
「あ、そうなの?じゃあついでに先輩に付き合いなさい」
「は?」
「コレコレ」
先輩はニコニコしながら右手に何かの束を持っている。
ぷらぷらしてるその束を見て、少し苦笑してしまった。
「鍵、返しに行くの付き合えってことですね?」
「そそ。ついでに付き合っていきなさい。先輩めいれい♪」
ハイハイと返事をして、先輩に従って校舎に向かって行く。
なにがそんなに嬉しいのか、先輩の足取りは軽やかだ。
…たく。こっちは落ち着くだけでも必死だってのに。
体育教官室の前で暫く待つと、中から先輩が出てきた。
「お疲れ様でした。お先に失礼致します」
丁寧に先輩がお辞儀すると、中からはだみ声でうぉ~いと返事が聞こえてきた。
「さてさて。忠義の後輩になにかご褒美を上げねばな。ウム」
「プ。それどこの武将ですか」
つまらない会話をしながら、先輩の好意に甘えることにする。
購買横の自販機でコーヒーを驕って頂き、それじゃ。と帰ろうとする。
と、
「ヒマなんでしょ?じゃ、もうちょい先輩に付き合いなさいよ」
なんて仰る。
状況がわからずポカンとしていると、ズイと接近してきて一言。
「こんなに天気いいんだし。屋上でカフェタイムとしゃれこみましょうか」
「屋上ですか?」
「そ。いっくよ~グズグズしてると置いて行くんだから」
ヤレヤレ。
たまにこのおじょうさんはわからない行動をなさる。
お供します。と片手を挙げ、後ろについて行く。
西校舎の3階を抜け、まだ上に登る。
唯一生徒に解放されている、通称「空中庭園」と呼ばれる屋上広場に上がった。
さすがに昼休みでもない今、かつこの陽射しでは他の生徒の姿は見えなかった。
あちぃなぁ…と思っていると、
「こっちこっち」
と先輩が手招きする。
何事?と思いついていくと、丁度2人分ほどの日陰がある。
午後になると、丁度その場所には貯水タンクの陰が出来上がるようだ。
「ここなら風もあるし、涼しいでしょ?」
と、こっちに座れと指差してる。
はぁ。と空返事をして横に座った。
……
ちょっと意識してしまう。
距離が近くて、なんだか落ち着かない。
しばらく他愛も無い話をしながらコーヒーを飲む。
正直落ち着かない。
…けど、安らぐ。
暫くすると少しの沈黙が訪れる。
「…ねぇ。なんでなのかな?」
「え?」
不意に沈黙は破れる。
陽が傾きだし、陰がやや延び始めた頃だった。
「なんでキミは朝練休まないの?」
先輩はそんなことを聞いてくる。
「いや、部活で決まったことですし」
「でも、キミ以外はもう来てないよ?実質中止といっしょじゃない」
先輩は前を向いたままそう聞いてくる。
…答えはもう出てるんだ。でも、それは言えない。
「先輩だって来てるじゃないですか」
「そうだよね。でもあたしはキミが来てるからかな」
「あ、もしかしてご迷惑かけてましたか?」
「ううん。そういうことじゃないの」
よくわからない。
ただ、鼓動だけが早くなっていく。
よく、…わからない。
「なんでキミは朝練休まないの?」
「…それは…」
言い淀んで黙ってしまう。
すると、
「あたしはキミが来るから。キミがいるからなんだけどな」
・・・は?
それはさっき聞いた言葉だ。
でも、少し響きが違う。
「キミは違ったのか。ちょっと勘違いしてたかなー」
「あ…」
先輩はすいと立ち上がり、オレに向き合った。
丁度陰が顔にかかっているせいでその表情が見えない。
「違った?」
「…違って…ません…よ」
言った。
言った。
言った。
イッテシマッタ。
誰にも言ってなかった気持ちを口にしてしまった。
「ふふふ♪…やっぱり。だと思ってた~」
「あ…」
陰のなかから先輩が微笑んでるのがわかる。
顔がさらに赤くなるのがわかる。
「じゃ、お互いにそう思ってたって事だ。ね?」
「…そう…なります…ね」
横を向いたまま肯定の意思を伝える。
心臓がどうにかなってしまいそうだ。
「ねぇ・・・見て?」
そういって先輩はスカートの端に手を添える。
「・・・・」
声が出ない。
「あたしね・・・今、はいてないんだよ?」
「え?」
思考が定まらない。
今、なんて、イッタンダ?
「見たい?」
「…」
アタマハシロイママダデモウナズイタジブンガトオクニイタ
ヨクワカラナイケドコレデイインダロ?
先輩のしなやかな手がゆっくりと上がる。
一緒にスカートの裾が持ち上がる。
陰の中にあって、うっすらとスカートが透けて見えている。
しなやかな肢体が目に焼きついて、視線を外せない。
スカートはもう太腿を半分以上過ぎている。
思考が定まらない。
「…」
「…」
ゴクリと唾を嚥下する音が響いたきがする。
口がカラカラだ。喉が張り付いている。
「なーんてね」
「は?」
「なんか目が怖い」
「は?」
「本気にしてたでしょ?えっちなんだー」
「は?」
「はいてないわけないでしょー!鼻の下伸びすぎ!」
「は?」
え?意味がわからないんだけど?ナニ?
え?エ?え?どういうことなんだ?
「もー!ちょっと困らせようと思っただけなのに!」
「あ…」
「キミ、えっちでしょ」
「あ、ごめん…」
からかわれた?
情けない…今、どんな顔してるんだオレ…
「…か、帰ります!」
慌てて立ち上がる。
一刻も早く立ち去りたかった。
扉に向かおうとしたその時、ぐっと手が引っ張られる。
え?
振り向いたその目の前に、先輩の顔がある。
やわらかな感触。
目を閉じた先輩の顔。
あたたかいモノが触れている。
ス…と音も無く顔が離れて、先輩がこちらを見つめている。
「きす、しちゃった」
いたずらな笑顔がこちらを見つめている。
くしゃくしゃにした笑顔。
「キミの気持ちが聞けて本当によかった。本当は不安だったんだぁ~」
「あ……」
「じゃ、かえろっか♪」
「あ…はい」
ボーっとしたまま先輩に連れられて校舎を後にする。
そのあとはよくおぼえていない。
気が付いたら家にいて、こうして窓を眺めてる。
朱に染まった空が、ジワリジワリと夕闇に侵食されている。
こころの熱が落ち着いていくように、空もその色を朱から群青へとうつしていく。
ユメのようで。きもちがうわついて。
だから確かめる様に、唇に触れてみた。
まだそこには暖かな温もりが残っているようだった。
気持ちを伝えて。伝えられて。
これって…シアワセってことだよな?
もう一度外に目をやって、別れ際に先輩がくれた言葉を思い出す。
「明日も朝練にくるよーに!だいじなでーとなんだからね!」
思い出す。
「大会が終わったら、いっぱいでーとに連れて行ってくれることー!約束だからね?」
思い出す。
「そしたら…こんどは本当に見せてあげるよ?はいてないところ♪」
にしし♪と笑う顔を思い出す。
「大好きだよ…とっても」
照れる顔を思い出す。
「大好きだよ。だーいすき!キミのことが!」
思い出す。あの笑顔を。