少しでも早く先手を打って出てやろうと一歩を踏み込んだ守羽の全身がぐらりと揺れる。出血多量からくる眩暈が主要因だったが、それに加えて左腕の欠損も大きかった。
人間は四肢のいずれかを失うだけでも身体全体のバランスを簡単に崩してしまう。守羽はそれを考慮に加えていなかった。
「おおお！！」
結果として、ふらついた守羽の右頬を茨木童子が先んじて思い切り殴打した。
光の牢獄を破壊した大鬼の一撃をまともに受け、頬骨が砕ける音が直接頭に響き渡る。折れた奥歯が吐血に混じって数本飛び出る。
殴打の威力に振り回された首がメキメキと嫌な音を立てて捩れるのを“倍加”で押さえ付けながら、血で赤く染まる視界に大鬼を捉え直す。
狙うべきは一点のみ。
「ごっ……ァっあああああああ！！」
しかし拳が届くより前に引き戻した鬼の左手が繰り出される方が早かった。揃えられた五指が突き出されるのを、首の肉を多少削がれるに留めて回避する。
そもそもの身体性能が、“倍加”を巡らせた守羽と比べても大鬼は段違いに高い。それは致命傷を負って互いに隻腕となった今の状況においても大差無かった。
突き出した左腕の速度に押される形で体が後方に飛ぶ。大鬼から目を逸らさぬままに必死に地面を求めて両足をバタつかせるが、どういうわけかあるはずの地面がそこには無く、守羽は驚愕と戸惑いの中で背中から落ちる。
「かふっ！」
僅かな滞空の後に地面に激突した守羽は、そこが大鬼との激戦の中で大きく抉れたクレーターの中だと気付いた。
クレーターの縁から跳び下りて来た茨木童子の飛び蹴りを倒れた状態から転がり躱す。衝撃がさらに抉れた地面を深く減り込ませる。
追撃が来る前に立ち上がるが、両足が震えているのが分かる。これ以上は攻撃どころか回避すら難しいかもしれない。
やはり出せてあと一撃。当てようが外そうがそれっきりだ。もう拳を繰り出したら体勢を戻す体力すら残らないのを察する。
だが、こんな瀕死の体で大鬼に攻撃を当てるのは非常に難しい。こうなれば身の保身など考えていられる場合ではない。
（あの人に手は出させねえ…絶対に…！！）
たとえ刺し違えることになろうとも、久遠静音を狙うこの人外はこの場で殺さねばならない。口から折れた歯の破片を吐き出しながら自らの命と引き換えの覚悟で拳を握る。
「神門君跳んでっ！」
「ッ！？」
耳に届いた切実な声音に、守羽は思わず言葉の真意を考えるよりも早く鬼から距離を取ってクレーターから地上まで跳ぶ。
「逃がすと、思って……」
茨木童子が俺を見上げて両足に力を溜め込む。この程度の距離であれば一度の跳躍で一秒掛からず詰められてしまう。
が、その時に守羽が見ていたのは茨木童子ではなく。
（……何をっ？）
空中で守羽が見たものは、巨大なクレーターの端で片膝を着いた久遠静音の姿。人外に狙われている恐怖を押し込めて、引き攣った表情で冷や汗を垂らしながらも両手を荒れた地面に触れさせている。
久遠静音にはいくつかの考えがあった。だがそのいずれも、静音が単身で成そうとすればかなりの難度であるものばかりだ。
“復元”による大鬼への攻撃も、静音の仮定が正しくなければ通じていなかった。あれは失敗して殺されたかもしれないという多大なリスクを覚悟した上で敢行した博打だった。たまたま大鬼の人間に対する油断と慢心が大き過ぎたが為に無傷で成功しただけのものでしかない。
複数考えていたそれらは、全て神門守羽への適切な援護として自身を機能させる為の動き方。大鬼の強さが想像を遥かに超えていて、守羽が早々に闘える状態でなくなってしまったことで意味を失くしてしまったと思っていたそれが、ここで活きてくる。
あのクレーターも、その考えの内の一つに組み込まれていた。
何故なら、静音は寝かされていた廃ビルの内側から外へ出る前に、見ていたから。
二人の交戦の一部を。
大鬼茨木童子が、空振りさせた拳で大きく地面を陥没させる場面を、見ていたから。
その地面が巨大なクレーターとなる前の状態を、確認していたから。
条件は満ちている。
だから発動できる。
「“復元”…！」
なんの音も気配も無かった。ただ、静音が満たされた条件下の中で傾けた対象への意識にのみ、その異能は呼応して能力を十全に発揮する。
今まさに跳び上がった守羽へ突撃しようとしていた茨木童子ごと、巨大な半球状のクレーターと化して陥没していた地面が、一瞬で平坦な荒地へと変わった。いや“戻った”。
生き埋めよりもなお酷い。何せ、異能の力によって地面は元の硬い地盤へ元通りに“復元”されたのだから。
穴を掘って、それから埋め直したのとはわけが違う。こんなもの、いきなり地中深くに瞬間移動されたようなものだ。出て来れるはずがない。並大抵の人外だって、こんな状況から生き残れる術など持ち合わせていないだろう。
「……………………ふ。ふふ」
ビキィッ!!!と。“復元”されたばかりの地面の一点から、蜘蛛の巣状に広く深い亀裂が走る。
直後に地面からロケットのように直上へ跳び上がる何かがあった。確認するまでもなくそれは額に二本の角を生やした人外。
ボロボロの和装のあちこちに土をつけた茨木童子が、怒りを含んだ表情と語調で、それでもいくらか余裕を含ませながら空中で叫ぶ。
「この程度…で！この私を倒せると思っていたのですか！？侮るな…！」
人外の中でも高位である大鬼という存在がそうさせたのか、茨木童子は人間を前に誇示するかのように致命傷を負った状態から自らを主張する。
「私は鬼の総大将、酒呑童子の側近にして右腕！こんな人間モドキと特殊な異能持ち如きに好きにはさせませんよォ！！」
（……そう。この程度じゃ、あの鬼は止まらない）
あれだけ守羽に一方的な攻勢を仕掛けていた鬼を見ていた静音も、それは重々理解していた。
だから静音は援護に徹する。倒せるなどとは思っていないからこそ。
どう足掻いたところで、決着は自分にはつけられないから。
（ごめんなさい、私じゃ届かない。詰めは、どうか君の手で）
「―――おお、おおおォォぉおおおあああああああああ！！！」
「なっ！？」
地面を突き破り飛び出してきた大鬼のタイミングに合わせて同時に跳躍していた守羽が、最後の一手を打ち破ったと思い込んでいた茨木童子へ肉迫する。
拳は握らず、貫手の形で揃える。
面ではなく点の突貫力で、守羽は右腕で槍が如き突きを放つ。
狙うは断魔の太刀で消し飛ばした右の脇腹。
強力無比な装甲である肉体が削がれたその一部分こそが、唯一今の守羽でも通じる突破口。
地盤を打ち砕く為に拳を振り上げた格好で滞空していた大鬼は、その意図に気付きながらも対応が遅れる。
「く、きっ…貴ッ様ああ！！」
「終わりだクソ鬼！！」
絶叫に絶叫で返し、守羽の貫手が正確に白煙を上げる鬼の脇腹へ突き刺さる。そのまま内側を破壊しながら貫手の五指が鋼鉄のような硬度の肋骨や背骨と衝突して相殺、捩れ折れながらも最奥まで破壊し尽くす。
「が、ぎゃっ……げぅ、ばがッがガがガガガあああァぁああああああ！！？」
「くたばれ人外、地獄に墜ちろよ…！」
渾身の一撃で叫ぶ気力も出せなくなった守羽が、最後に内部深く突き刺さった右腕をしならせて大鬼の体を地面へ投げ落とす。
真下に墜落した茨木童子が地面に叩きつけられ、先程“復元”で戻したばかりの地面へと再度大きなクレーターを生む。
深く深く減り込んだ大鬼の体は、もう二度と起き上がることはなかった。