No believe(7)
先輩の後に続いて扉を抜けると、秋らしい涼しげな風が脇を抜けていった。前を歩く先輩の長髪が、ぶわりと風を受けて広がる。まるで一枚の絵のようだと僕は思った。
先輩が僕を連れてきたのは屋上だった。完全下校時間などと同じように、少し前から多発していた物騒な事件のために屋上の縁には背の高いフェンスが張られ、扉にも常に南京錠で施錠がされている。
文化祭の喧騒もどこか遠くに聞こえるここだけは、学校の中でただ一箇所限りの落ち着いて話せる場所だと言えるだろう。
屋上に来るまでずっと無言だった先輩が、「んー」と大きく伸びをすると口を開いた。
「本当、今日はいい天気になって良かった」
独り言なのかこちらに呼びかけたのか分からなかったその言葉には答えず、僕は先輩に聞いてみる。
「どうして先輩が屋上の鍵なんて持ってるんですか?」
先輩は上半身だけで振り返ると、なんでもないことのように、
「実は、毎日昼休みにここに上がってタバコを一服するのが日課だったりして」などと、とんでもない事を言った。
一瞬、この屋上でタバコを吸う先輩の姿を想像してしまった。
スカートが汚れるのも気にせず地べたに座り込み、大きく吸い込んだ煙を一気に吐き出す。慣れたようなその仕草は、ともすれば煙で輪などまで作ってしまいそうだ。
……絶望的なほどに似合っていなかった。
「嘘、ですよね?」
「うん」
あっさりと認める先輩。
真っ直ぐに屋上の端まで行くと、突き当たりのフェンスに指を絡ませる。そこから下を見下ろせば、校庭のステージで行われる午後のイベントのために集まった、大勢の学生たちが見下ろせるはずだ。
「鍵はね、前に屋上に上がっていく人たち見つけて、その人たちにもらったの。タバコ吸おうとしてたみたいだったんだけど、それを誰にも告げ口しないって約束で。あ、その人たちはもう卒業しちゃったんだけどね」
意外だった。先輩がずっとその鍵を隠し持っていたことではなく、タバコを吸おうとしたその上級生を先輩が見逃していたことがだ。
「先輩は、もっと正義感の強い人なんだと思ってました」
先輩の視線が上を向く。文化祭日和とも言える秋晴れの空は雲一つ無い。
僕の疑問に答えるように、先輩は続けた。
「ここに来るのはね、前に言ったみたいにちょっと周りと目合わせたくないなーって思った時とか、なんとなく息が詰まりそうで一人になりたい時。立ち入り禁止の屋上に入るだけなんて大した事じゃないけど、自分は周りが思ってるような優等生なだけじゃないんだぞ、って主張だったのかも。安易だよね」
僕は先輩から三メートルほど後ろに、それ以上近づかないように立っている。
いつもの生徒会室で、窓から入り込む夕日の逆光に照らされるどこかファンタジーのような光景とは違って、今目の前にいる先輩は空の青さの中でも嫌味なほど現実味を帯びていて、僕にはそれ以上近づくことができなかった。
先輩が振り返る。不意に目が合う。すぐにでも逃げ出したい衝動が襲ってくる。
「失望した?」
僕は首を横に振る。
僕が先輩を避けていたのは、先輩に言いたくないことがあるからなのに。自分の醜いところを見せたくないからなのに。先輩はこれからそれを言わせるだろう、否応無く、どうしようもなく、それを聞かないと納得しないだろう。
僕の知っている先輩は、そういう人だった。
「……この前言ったこと、覚えてる?」
先輩が本題を切り出す。
「まだあれから二日ですよ? 忘れてるわけ、無いじゃないですか」
「そうだね、まだ二日。でもね、私が生徒会にいられる時間は、あと一日しか無いんだよ」
先輩は少し顔を俯けると小さくため息を吐きだす。
「このまま生徒会を引退しちゃったら、もう高崎君とこうして話すのも難しくなると思う。私も受験で忙しくなるし、高崎君だって進路とか考え始める時期だし、生徒会の仕事も忙しくなる。急ぎ過ぎだってのは分かってるんだけど、その前に答えが欲しいんだ」
焦っている自分を自覚して、その事をわざわざ言い訳するような言い方だった。
顔を上げる。先輩の頬は赤く染まっていた。夕日の逆光にも夜の闇にも隠されることの無いそれは、初めて僕の前にはっきりと現れた、先輩の照れた表情だった。
「私は、高崎君のことが好き。忙しくなるかもしれないけど、できたらちゃんと付き合いたいと思ってる」
明確な答えを求める視線が僕を射止めて放さない。
この場から逃げることも、嘘を付くことも、曖昧にごまかす事すら僕に許さない。
今この場に、どんな覚悟を持って立っているのかも分からない先輩に、僕が返すべき言葉は一つしかなかった。
「僕は……僕は先輩のことが好きですよ」
それは初めてする告白のはずなのに、僕の顔にはまるでこれから集団暴行にでも会うかのように苦渋の表情が浮かんでいるだろう。それほど、これから言う事は心に秘めておきたかったのだ。
でも、いくら隠したくても、それができないなら晒すしかないのだ。この醜い感情を。ありのままの自分を。
『それにしてもさ、高崎君でも謝ることがあるんだね』
いつかのそんな言葉が脳裏を掠める。先輩はなぜ僕が謝らないと思っていたんだったか。自分の行動に自信? そんなものはない。今ここにあるのは、どうしようもない罪悪感と……劣等感だけだ。
「でも、ごめんなさい。僕は、先輩とは付き合えません」
先輩が僕を連れてきたのは屋上だった。完全下校時間などと同じように、少し前から多発していた物騒な事件のために屋上の縁には背の高いフェンスが張られ、扉にも常に南京錠で施錠がされている。
文化祭の喧騒もどこか遠くに聞こえるここだけは、学校の中でただ一箇所限りの落ち着いて話せる場所だと言えるだろう。
屋上に来るまでずっと無言だった先輩が、「んー」と大きく伸びをすると口を開いた。
「本当、今日はいい天気になって良かった」
独り言なのかこちらに呼びかけたのか分からなかったその言葉には答えず、僕は先輩に聞いてみる。
「どうして先輩が屋上の鍵なんて持ってるんですか?」
先輩は上半身だけで振り返ると、なんでもないことのように、
「実は、毎日昼休みにここに上がってタバコを一服するのが日課だったりして」などと、とんでもない事を言った。
一瞬、この屋上でタバコを吸う先輩の姿を想像してしまった。
スカートが汚れるのも気にせず地べたに座り込み、大きく吸い込んだ煙を一気に吐き出す。慣れたようなその仕草は、ともすれば煙で輪などまで作ってしまいそうだ。
……絶望的なほどに似合っていなかった。
「嘘、ですよね?」
「うん」
あっさりと認める先輩。
真っ直ぐに屋上の端まで行くと、突き当たりのフェンスに指を絡ませる。そこから下を見下ろせば、校庭のステージで行われる午後のイベントのために集まった、大勢の学生たちが見下ろせるはずだ。
「鍵はね、前に屋上に上がっていく人たち見つけて、その人たちにもらったの。タバコ吸おうとしてたみたいだったんだけど、それを誰にも告げ口しないって約束で。あ、その人たちはもう卒業しちゃったんだけどね」
意外だった。先輩がずっとその鍵を隠し持っていたことではなく、タバコを吸おうとしたその上級生を先輩が見逃していたことがだ。
「先輩は、もっと正義感の強い人なんだと思ってました」
先輩の視線が上を向く。文化祭日和とも言える秋晴れの空は雲一つ無い。
僕の疑問に答えるように、先輩は続けた。
「ここに来るのはね、前に言ったみたいにちょっと周りと目合わせたくないなーって思った時とか、なんとなく息が詰まりそうで一人になりたい時。立ち入り禁止の屋上に入るだけなんて大した事じゃないけど、自分は周りが思ってるような優等生なだけじゃないんだぞ、って主張だったのかも。安易だよね」
僕は先輩から三メートルほど後ろに、それ以上近づかないように立っている。
いつもの生徒会室で、窓から入り込む夕日の逆光に照らされるどこかファンタジーのような光景とは違って、今目の前にいる先輩は空の青さの中でも嫌味なほど現実味を帯びていて、僕にはそれ以上近づくことができなかった。
先輩が振り返る。不意に目が合う。すぐにでも逃げ出したい衝動が襲ってくる。
「失望した?」
僕は首を横に振る。
僕が先輩を避けていたのは、先輩に言いたくないことがあるからなのに。自分の醜いところを見せたくないからなのに。先輩はこれからそれを言わせるだろう、否応無く、どうしようもなく、それを聞かないと納得しないだろう。
僕の知っている先輩は、そういう人だった。
「……この前言ったこと、覚えてる?」
先輩が本題を切り出す。
「まだあれから二日ですよ? 忘れてるわけ、無いじゃないですか」
「そうだね、まだ二日。でもね、私が生徒会にいられる時間は、あと一日しか無いんだよ」
先輩は少し顔を俯けると小さくため息を吐きだす。
「このまま生徒会を引退しちゃったら、もう高崎君とこうして話すのも難しくなると思う。私も受験で忙しくなるし、高崎君だって進路とか考え始める時期だし、生徒会の仕事も忙しくなる。急ぎ過ぎだってのは分かってるんだけど、その前に答えが欲しいんだ」
焦っている自分を自覚して、その事をわざわざ言い訳するような言い方だった。
顔を上げる。先輩の頬は赤く染まっていた。夕日の逆光にも夜の闇にも隠されることの無いそれは、初めて僕の前にはっきりと現れた、先輩の照れた表情だった。
「私は、高崎君のことが好き。忙しくなるかもしれないけど、できたらちゃんと付き合いたいと思ってる」
明確な答えを求める視線が僕を射止めて放さない。
この場から逃げることも、嘘を付くことも、曖昧にごまかす事すら僕に許さない。
今この場に、どんな覚悟を持って立っているのかも分からない先輩に、僕が返すべき言葉は一つしかなかった。
「僕は……僕は先輩のことが好きですよ」
それは初めてする告白のはずなのに、僕の顔にはまるでこれから集団暴行にでも会うかのように苦渋の表情が浮かんでいるだろう。それほど、これから言う事は心に秘めておきたかったのだ。
でも、いくら隠したくても、それができないなら晒すしかないのだ。この醜い感情を。ありのままの自分を。
『それにしてもさ、高崎君でも謝ることがあるんだね』
いつかのそんな言葉が脳裏を掠める。先輩はなぜ僕が謝らないと思っていたんだったか。自分の行動に自信? そんなものはない。今ここにあるのは、どうしようもない罪悪感と……劣等感だけだ。
「でも、ごめんなさい。僕は、先輩とは付き合えません」
そんなわけはないのだが、まるで時が止まったような気がした。
しばらくの間、先輩は無表情で全く動かなかった。ショックを受けて落ち込んでいるというよりは、僕の言ったことの意味を思案している様子で、口元に手を当てながら僅かに顔を俯けていた。
「私のこと、好きって言った?」
俯いたまま、まるで独り言のように呟く。とりあえず「はい」と答えておく。
「でも、私とは付き合えない」
「はい」
「納得できない」
「そうでしょうね」
確認するような言葉に、機械的に返事をする。先輩が僕の目を再び見たとき、先輩の顔からはもう照れのようなものは消えていた。テラスで僕に話しかけてきたときのように、感情の読みづらい表情。
「理由、聞かせてくれる?」
今まで先輩は、僕にこれまでの印象が全く変わるほどの、弱みと言っていい一面を見せてくれた。だから今度は僕の番なのだと、今にも逃げ出しそうな自分を押さえつけて僕は切り出した。
「先輩は、二人で夕飯を食べに行ったときの事を覚えていますか? 話していた内容やその後の告白の事とかじゃなくて、学校から駅に向かうまでの道のりでのことです」
「買い食いしちゃいけないとかどうとか話してた時だよね。うん、覚えてる」
言わなければならないと覚悟していても、思わず声が震えそうになる。
「先輩は気付いていたかどうか分かりませんが、通りすがった人が何人も僕たちを振り返って見ていました。いや、僕たちじゃないですね、先輩を見ていたんです」
懺悔をしている気分で、一つ一つ噛み潰すように言葉を落としていく。
「もちろん……先輩が綺麗だからですよ」
本当なら顔から火が出るほど恥ずかしいセリフなのに、僕はそれを淡々と口にすることができた。まるで開き直っているように、逆に明るさを装って。
先輩の顔を見ると、さっきほど露骨ではなかったが顔が赤くなっているように見えた。意外な言葉に弱いのは、こんな状況でも変わらないなのだろう。
今の状況も忘れて、口元に含み笑いが浮かびそうになる。この人に好きになってもらえて純粋に嬉しい、そう思った。そして自分もこの人が好きで堪らないのだ。
所々で見える純粋な内面を思わせる表情、普段の姿からは思いも寄らない分かりやすい態度。一つ一つの新しく見る仕草が、もの凄く可愛く思える。
でも、だからこそ。自分はこの人と違うのだと感じてしまうのだ。
「先輩に質問です。あの時、先輩を見ていた人たちの中で何人が僕たちのことを彼氏彼女だと思ったと思います?」
「……どういうこと?」
芝居がかった口調で聞いた僕に、先輩は首を傾げた。周りの人に見られていたことさえ自覚があったか怪しい先輩のことだ、あの時にはそんなことを考えもしていなかっただろう。
「正解は、『誰もそんな風には思わなかった』ですよ。背が低い、気弱そうな、ただ後ろを付いていっているだけ。普通に考えて、そんな僕を誰も彼氏だなんて考えないでしょう。だって明らかに釣り合わないんですから」
そう、放課後に男女が二人、それもかなり遅い時間に一緒に帰宅するなんて、普通に考えたら恋人同士だろう。でも、それは僕たちには当てはまらない。
一七〇センチぐらい身長のある先輩よりも目に見えて分かるほどには背が低い、しかも斜め後ろという微妙な位置から動かなかった僕が、彼氏に見えていたわけがない。
よく見えて事実通りの先輩と後輩。悪く見えたら……生徒会長に守ってもらっている情けないいじめられっこ? いや、それは自虐的過ぎるかな。
「学校の連中だって、もしも僕たちが付き合ったらどんな目で見るか簡単に想像できます。高嶺の花が神棚からぼた餅抱えて降ってきたようなものです。分不相応にも程がある。何でアイツが? そう思うに決まってます」
「付き合えないのは、周りの人の目が気になるからって事?」
「まぁ、要するにそうですね」
学校で一緒にいれば、四六時中誰かに好奇の視線を向けられるだろう。一緒に登下校をするならそのときも同じだ。そして、これから受験に入る先輩と、学校外で長く過ごすことは難しい。
それは確かに、断った理由の一つではあった。
「私に、高崎君が釣り合わないから?」
「そうです」
「私といると、高崎君の自尊心が傷つけられるから……って事?」
「それは違います」
「え?」と、先輩は段々と俯き気味になっていた顔を上げた。
今顔を上げなければ、涙がこぼれてしまったかもしれないと思うほど、先輩の目は潤んで、頬は照れとは違う理由で赤かった。罪悪感がますます膨らむ。
多分先輩は、僕が先輩と一緒にいることで人から酷い目で見られるのが嫌だから、告白を断ったのだと思ったのだろう。しかし、それはむしろ逆なのだ。
だって僕は、先輩が『僕みたいなやつ』と一緒にいるのが我慢ならないだけなんだから。
「先輩。僕はね、ずっと『織原会長』に憧れていたんです」
さっきは淡々と好きだと言えたはずなのに、憧れという単語を口に出すと酷く頬が熱くなった。
「一回も話したことなんか無くて、遠くからたまに見かけるだけで、性格や内面の情報なんかは、むしろ他の人から聞いたことの方が多いくらいで。まるで好きな芸能人みたいに会長のことを見てたんだと思います。そのくらい遠い存在なんだって、勝手に決め付けてました」
そのままで良かった。
自己完結で追われる『憧れ』のままだったのなら、こんな風に自分の嫌な部分を自覚しなくてすんだ、こんな風に人に曝け出すことだって無かった。
このまま先輩が生徒会を引退して、僕は時期を逃した、機会が無かったって名目で告白なんてできない自分を正当化して。そのうち先輩は卒業して、僕は先輩と同じ大学になんて行けるわけ無いんだからと、この恋にさえならなかった憧れの結末を自分に納得させる。
それで良かった。そんな終わり方が良かった。
「でも生徒会に入って、最近段々『先輩』と話すようになって、先輩にも悩みがあったり弱みも本音も中に抱えてるって事が分かって、一人の身近な人間として見るようになりました。だから、勘違いしちゃったんです。この憧れを、恋にしてもいいんじゃないかって」
一人でずっと喋っていたせいか、息切れしそうになって一息吐く。
先輩を見ると、いくつもの感情がない交ぜになって結局良く分からなくなったような複雑な表情で、じっと僕を見つめていた。
「でも違ったんです。そういう弱みや悩みが見えて色々と話しをして、それで見えてきた先輩はやっぱり人として凄い尊敬できる人でした。憧れていた時と同じように思いましたよ。自分が隣に、なんて……絶対に無理だって。自分みたいな人間は、先輩には釣り合わないって」
だからだろうか、先輩とは生徒会室でも外でも、二人きりの時しかまともに雑談することさえできなかった。周りに人がいる時は、仕事の話題以外でほとんど話した記憶が無い。
それは本当に、さっき先輩が言ったように人の目に萎縮していたという事なのだろう。自分みたいな人間が、先輩に近寄って親しくなろうとする浅ましさを、人に見られるのが嫌だったから。
「先輩、正直に言います。僕は、僕の好きな先輩には、僕のことを好きになんかなって欲しくなかったんです。もっと誰もが認めるような、先輩と釣り合うくらいいい人と付き合って、それを知った僕に『ああ、あの人じゃあしょうがないや』って諦めさせて欲しかったんです」
しばらくの間、先輩は無表情で全く動かなかった。ショックを受けて落ち込んでいるというよりは、僕の言ったことの意味を思案している様子で、口元に手を当てながら僅かに顔を俯けていた。
「私のこと、好きって言った?」
俯いたまま、まるで独り言のように呟く。とりあえず「はい」と答えておく。
「でも、私とは付き合えない」
「はい」
「納得できない」
「そうでしょうね」
確認するような言葉に、機械的に返事をする。先輩が僕の目を再び見たとき、先輩の顔からはもう照れのようなものは消えていた。テラスで僕に話しかけてきたときのように、感情の読みづらい表情。
「理由、聞かせてくれる?」
今まで先輩は、僕にこれまでの印象が全く変わるほどの、弱みと言っていい一面を見せてくれた。だから今度は僕の番なのだと、今にも逃げ出しそうな自分を押さえつけて僕は切り出した。
「先輩は、二人で夕飯を食べに行ったときの事を覚えていますか? 話していた内容やその後の告白の事とかじゃなくて、学校から駅に向かうまでの道のりでのことです」
「買い食いしちゃいけないとかどうとか話してた時だよね。うん、覚えてる」
言わなければならないと覚悟していても、思わず声が震えそうになる。
「先輩は気付いていたかどうか分かりませんが、通りすがった人が何人も僕たちを振り返って見ていました。いや、僕たちじゃないですね、先輩を見ていたんです」
懺悔をしている気分で、一つ一つ噛み潰すように言葉を落としていく。
「もちろん……先輩が綺麗だからですよ」
本当なら顔から火が出るほど恥ずかしいセリフなのに、僕はそれを淡々と口にすることができた。まるで開き直っているように、逆に明るさを装って。
先輩の顔を見ると、さっきほど露骨ではなかったが顔が赤くなっているように見えた。意外な言葉に弱いのは、こんな状況でも変わらないなのだろう。
今の状況も忘れて、口元に含み笑いが浮かびそうになる。この人に好きになってもらえて純粋に嬉しい、そう思った。そして自分もこの人が好きで堪らないのだ。
所々で見える純粋な内面を思わせる表情、普段の姿からは思いも寄らない分かりやすい態度。一つ一つの新しく見る仕草が、もの凄く可愛く思える。
でも、だからこそ。自分はこの人と違うのだと感じてしまうのだ。
「先輩に質問です。あの時、先輩を見ていた人たちの中で何人が僕たちのことを彼氏彼女だと思ったと思います?」
「……どういうこと?」
芝居がかった口調で聞いた僕に、先輩は首を傾げた。周りの人に見られていたことさえ自覚があったか怪しい先輩のことだ、あの時にはそんなことを考えもしていなかっただろう。
「正解は、『誰もそんな風には思わなかった』ですよ。背が低い、気弱そうな、ただ後ろを付いていっているだけ。普通に考えて、そんな僕を誰も彼氏だなんて考えないでしょう。だって明らかに釣り合わないんですから」
そう、放課後に男女が二人、それもかなり遅い時間に一緒に帰宅するなんて、普通に考えたら恋人同士だろう。でも、それは僕たちには当てはまらない。
一七〇センチぐらい身長のある先輩よりも目に見えて分かるほどには背が低い、しかも斜め後ろという微妙な位置から動かなかった僕が、彼氏に見えていたわけがない。
よく見えて事実通りの先輩と後輩。悪く見えたら……生徒会長に守ってもらっている情けないいじめられっこ? いや、それは自虐的過ぎるかな。
「学校の連中だって、もしも僕たちが付き合ったらどんな目で見るか簡単に想像できます。高嶺の花が神棚からぼた餅抱えて降ってきたようなものです。分不相応にも程がある。何でアイツが? そう思うに決まってます」
「付き合えないのは、周りの人の目が気になるからって事?」
「まぁ、要するにそうですね」
学校で一緒にいれば、四六時中誰かに好奇の視線を向けられるだろう。一緒に登下校をするならそのときも同じだ。そして、これから受験に入る先輩と、学校外で長く過ごすことは難しい。
それは確かに、断った理由の一つではあった。
「私に、高崎君が釣り合わないから?」
「そうです」
「私といると、高崎君の自尊心が傷つけられるから……って事?」
「それは違います」
「え?」と、先輩は段々と俯き気味になっていた顔を上げた。
今顔を上げなければ、涙がこぼれてしまったかもしれないと思うほど、先輩の目は潤んで、頬は照れとは違う理由で赤かった。罪悪感がますます膨らむ。
多分先輩は、僕が先輩と一緒にいることで人から酷い目で見られるのが嫌だから、告白を断ったのだと思ったのだろう。しかし、それはむしろ逆なのだ。
だって僕は、先輩が『僕みたいなやつ』と一緒にいるのが我慢ならないだけなんだから。
「先輩。僕はね、ずっと『織原会長』に憧れていたんです」
さっきは淡々と好きだと言えたはずなのに、憧れという単語を口に出すと酷く頬が熱くなった。
「一回も話したことなんか無くて、遠くからたまに見かけるだけで、性格や内面の情報なんかは、むしろ他の人から聞いたことの方が多いくらいで。まるで好きな芸能人みたいに会長のことを見てたんだと思います。そのくらい遠い存在なんだって、勝手に決め付けてました」
そのままで良かった。
自己完結で追われる『憧れ』のままだったのなら、こんな風に自分の嫌な部分を自覚しなくてすんだ、こんな風に人に曝け出すことだって無かった。
このまま先輩が生徒会を引退して、僕は時期を逃した、機会が無かったって名目で告白なんてできない自分を正当化して。そのうち先輩は卒業して、僕は先輩と同じ大学になんて行けるわけ無いんだからと、この恋にさえならなかった憧れの結末を自分に納得させる。
それで良かった。そんな終わり方が良かった。
「でも生徒会に入って、最近段々『先輩』と話すようになって、先輩にも悩みがあったり弱みも本音も中に抱えてるって事が分かって、一人の身近な人間として見るようになりました。だから、勘違いしちゃったんです。この憧れを、恋にしてもいいんじゃないかって」
一人でずっと喋っていたせいか、息切れしそうになって一息吐く。
先輩を見ると、いくつもの感情がない交ぜになって結局良く分からなくなったような複雑な表情で、じっと僕を見つめていた。
「でも違ったんです。そういう弱みや悩みが見えて色々と話しをして、それで見えてきた先輩はやっぱり人として凄い尊敬できる人でした。憧れていた時と同じように思いましたよ。自分が隣に、なんて……絶対に無理だって。自分みたいな人間は、先輩には釣り合わないって」
だからだろうか、先輩とは生徒会室でも外でも、二人きりの時しかまともに雑談することさえできなかった。周りに人がいる時は、仕事の話題以外でほとんど話した記憶が無い。
それは本当に、さっき先輩が言ったように人の目に萎縮していたという事なのだろう。自分みたいな人間が、先輩に近寄って親しくなろうとする浅ましさを、人に見られるのが嫌だったから。
「先輩、正直に言います。僕は、僕の好きな先輩には、僕のことを好きになんかなって欲しくなかったんです。もっと誰もが認めるような、先輩と釣り合うくらいいい人と付き合って、それを知った僕に『ああ、あの人じゃあしょうがないや』って諦めさせて欲しかったんです」
まくしたてるように自分の気持ちを一方的にぶつける。そんな暴力のような言葉に、先輩は黙って聞き入っていた。
気が付いたら自分だけが喋っていて、でも勢いを抑えることはできなかった。ずっと隠しておくことなんて無理だったから、逆に少しでも早く言い切ってしまいたかった。楽になりたかった。
「それが、僕が断った理由です」
嫌われても仕方ない。いや、むしろこれで吹っ切れるなら嫌われたいとすら思った。本当はなし崩し的に迎えるはずだった終わりを、はっきりとした形で迎えられるんだから。
しかし――
「……それは違うんじゃないかな」
先輩の言葉は、カケラも冷静さを失っていなかった。
「何が、違うって言うんですか?」
自分から出たはずの声は、搾り出したようにか細い。
嫌われるならいい。自分の気持ちが受け入れられないのなんて百も承知だ。でも、正直に言ったつもりのそれを頭ごなしに否定された。その事が、少なからずショックだった。
「今、高崎君が言ってたのは、今まで私に告白しなかった理由でしょ?」
先輩が一歩、前に足を踏み出す。
「私が聞いたのは、私の告白を断った理由。私のどこが気に入らないとか、私と付き合ってたら高崎君にどんな不都合があるかとか、そういうこと。私が釣り合わない人と付き合ってるのが見てられない? それって、私が好きになった人の選択を間違えたって事? 付き合う人なんて私自身が決めることでしょ、私は間違えたなんて全然思ってない。勝手に私が好きになった人を馬鹿にしないで!」
ずかずかという擬音が似合いそうな勢いで、先輩は僕に詰め寄ってきた。
冷静さを失っていないなんてとんでもない。僕は初めて、先輩が激情のままに言葉を吐き出しているのを見た。
熱く語ったその好きな人とやらは僕のことなのだが、珍しく語気を荒らげる先輩にそんなことを冷静に突っ込むことなどできるはずもなく、ふと気付くと先輩はもう、手を伸ばせば届くほど近くに立っていた。
「じゃあ、僕だって言わせてもらいますけどね、僕の方にだって選ぶ権利はあるんですよ」
気が付けば張り合っていた。もう意地になっているのかもしれない。
流してしまうのなら、素直に謝って先輩を失望でもなんでもさせれば一番いいはずなのに、僕は半ばムキになって言い返す。
「先輩のどこが気に入らないなんてあるわけないじゃないですか、好きなんですから。でもね、僕がダメなんです、僕の方が付き合うってことに耐えられないんですよ!」
泣きそうだった。なんで好きな人と付き合うのを断るのに、こんなに意地にならなければいけないのか。
もう諦めてくれればいいのに、自分なんかにそんなに食い下がってくれなくていいのに、どうして先輩はこんなに意固地になっているのか。
決まっている、僕が知っている先輩、僕の好きな先輩だから。相手のことも自分のこともひっくるめて、自分の納得の行っていないことには妥協できない先輩だからだ。
目の前に立つ先輩が、ため息を吐き出す。
「私たち、両想いだよね」
「…………」
「それが分かってて、それでも一緒にいない。そっちの方が私には耐えられないよ」
そう言うと、先輩はさらに一歩前に出る。
「勝負をしよう、高崎君」
「え?」
突然のセリフに驚いた僕は顔を上げた。突拍子も無いその内容が、冗談なんかでは絶対にありえないことを先輩の表情が語っている。
「私がこれからすることを避けられたら高崎君の勝ち、避けられなかったら私の勝ち。負けた方は買った方の言い分通りにして、なんでも一つ言う事を聞くこと。どう?」
まるで子供の口約束のようだと僕は思った。多分頬でも引っぱたくつもりなのだろう。僕が罪悪感で避けられないと思って。
しかし、それならば非常に徹してこの勝負に乗ろう。そして、もう僕なんかのことを気にするのは止めてもらうのだ。この距離で完全に避けきるのは難しいのかもしれないが、やってやれないことは無い。
そして言おう。『僕のことを嫌いになってください』と。
「いいですよ。その勝負、受けます」
頷いた先輩の手が動く。やはりそうかと構えた瞬間、その手は予想外の動きをした。
そっと僕の頬に触れられる先輩の手。秋風にさらされたひんやりと冷たいそれは、僕の意識を一瞬で刈り取って行く。
ああそうか、なんてこったい。まいったねこれは。
近づいてくる先輩の顔、火照った頬、瞑られた目、そして軽く閉じられた唇。
避けるのは簡単だ。マンガか何かでよくある、唐突にこういうことがあって避けられないなんてのは嘘っぱちだから。こんなもの、少し顔をびくつかせただけでも位置がずれてしまうし、軽く首を倒すだけでも回避できる。
そうとも、避けてしまえばいい。今まで自分の口から出した言葉を考えれば、それが当たり前だ。軽く手を払って、一歩後ろに下がる。したたかな顔を作って『僕の勝ちですね』と言ってやればいいのだ。
なのに――
「ん……」
触れた柔らかい感触が、全身の力を抜いていく。
避けたくないと思ってしまった。
これからのこと、今までのこと。考えればそれが良くない選択だって分かっているのに。自分の今までのセリフを考えれば、絶対にやってはいけないことだって思っていたはずなのに。
避けたくなかった。それがこの後どんな結果に繋がるとしても、今、目を閉じて顔を近づけてきた好きな人を避けることなんてできるはずが無かった。
十秒も経たずに離れる唇。ステップを踏むように一歩後ろに下がった先輩は、
「ほら、私の勝ち」と言った。
真っ赤な顔で、それでもしてやったりという表情で、抜けるように広がる青空に負けないくらいの笑顔で。
気が付いたら自分だけが喋っていて、でも勢いを抑えることはできなかった。ずっと隠しておくことなんて無理だったから、逆に少しでも早く言い切ってしまいたかった。楽になりたかった。
「それが、僕が断った理由です」
嫌われても仕方ない。いや、むしろこれで吹っ切れるなら嫌われたいとすら思った。本当はなし崩し的に迎えるはずだった終わりを、はっきりとした形で迎えられるんだから。
しかし――
「……それは違うんじゃないかな」
先輩の言葉は、カケラも冷静さを失っていなかった。
「何が、違うって言うんですか?」
自分から出たはずの声は、搾り出したようにか細い。
嫌われるならいい。自分の気持ちが受け入れられないのなんて百も承知だ。でも、正直に言ったつもりのそれを頭ごなしに否定された。その事が、少なからずショックだった。
「今、高崎君が言ってたのは、今まで私に告白しなかった理由でしょ?」
先輩が一歩、前に足を踏み出す。
「私が聞いたのは、私の告白を断った理由。私のどこが気に入らないとか、私と付き合ってたら高崎君にどんな不都合があるかとか、そういうこと。私が釣り合わない人と付き合ってるのが見てられない? それって、私が好きになった人の選択を間違えたって事? 付き合う人なんて私自身が決めることでしょ、私は間違えたなんて全然思ってない。勝手に私が好きになった人を馬鹿にしないで!」
ずかずかという擬音が似合いそうな勢いで、先輩は僕に詰め寄ってきた。
冷静さを失っていないなんてとんでもない。僕は初めて、先輩が激情のままに言葉を吐き出しているのを見た。
熱く語ったその好きな人とやらは僕のことなのだが、珍しく語気を荒らげる先輩にそんなことを冷静に突っ込むことなどできるはずもなく、ふと気付くと先輩はもう、手を伸ばせば届くほど近くに立っていた。
「じゃあ、僕だって言わせてもらいますけどね、僕の方にだって選ぶ権利はあるんですよ」
気が付けば張り合っていた。もう意地になっているのかもしれない。
流してしまうのなら、素直に謝って先輩を失望でもなんでもさせれば一番いいはずなのに、僕は半ばムキになって言い返す。
「先輩のどこが気に入らないなんてあるわけないじゃないですか、好きなんですから。でもね、僕がダメなんです、僕の方が付き合うってことに耐えられないんですよ!」
泣きそうだった。なんで好きな人と付き合うのを断るのに、こんなに意地にならなければいけないのか。
もう諦めてくれればいいのに、自分なんかにそんなに食い下がってくれなくていいのに、どうして先輩はこんなに意固地になっているのか。
決まっている、僕が知っている先輩、僕の好きな先輩だから。相手のことも自分のこともひっくるめて、自分の納得の行っていないことには妥協できない先輩だからだ。
目の前に立つ先輩が、ため息を吐き出す。
「私たち、両想いだよね」
「…………」
「それが分かってて、それでも一緒にいない。そっちの方が私には耐えられないよ」
そう言うと、先輩はさらに一歩前に出る。
「勝負をしよう、高崎君」
「え?」
突然のセリフに驚いた僕は顔を上げた。突拍子も無いその内容が、冗談なんかでは絶対にありえないことを先輩の表情が語っている。
「私がこれからすることを避けられたら高崎君の勝ち、避けられなかったら私の勝ち。負けた方は買った方の言い分通りにして、なんでも一つ言う事を聞くこと。どう?」
まるで子供の口約束のようだと僕は思った。多分頬でも引っぱたくつもりなのだろう。僕が罪悪感で避けられないと思って。
しかし、それならば非常に徹してこの勝負に乗ろう。そして、もう僕なんかのことを気にするのは止めてもらうのだ。この距離で完全に避けきるのは難しいのかもしれないが、やってやれないことは無い。
そして言おう。『僕のことを嫌いになってください』と。
「いいですよ。その勝負、受けます」
頷いた先輩の手が動く。やはりそうかと構えた瞬間、その手は予想外の動きをした。
そっと僕の頬に触れられる先輩の手。秋風にさらされたひんやりと冷たいそれは、僕の意識を一瞬で刈り取って行く。
ああそうか、なんてこったい。まいったねこれは。
近づいてくる先輩の顔、火照った頬、瞑られた目、そして軽く閉じられた唇。
避けるのは簡単だ。マンガか何かでよくある、唐突にこういうことがあって避けられないなんてのは嘘っぱちだから。こんなもの、少し顔をびくつかせただけでも位置がずれてしまうし、軽く首を倒すだけでも回避できる。
そうとも、避けてしまえばいい。今まで自分の口から出した言葉を考えれば、それが当たり前だ。軽く手を払って、一歩後ろに下がる。したたかな顔を作って『僕の勝ちですね』と言ってやればいいのだ。
なのに――
「ん……」
触れた柔らかい感触が、全身の力を抜いていく。
避けたくないと思ってしまった。
これからのこと、今までのこと。考えればそれが良くない選択だって分かっているのに。自分の今までのセリフを考えれば、絶対にやってはいけないことだって思っていたはずなのに。
避けたくなかった。それがこの後どんな結果に繋がるとしても、今、目を閉じて顔を近づけてきた好きな人を避けることなんてできるはずが無かった。
十秒も経たずに離れる唇。ステップを踏むように一歩後ろに下がった先輩は、
「ほら、私の勝ち」と言った。
真っ赤な顔で、それでもしてやったりという表情で、抜けるように広がる青空に負けないくらいの笑顔で。