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「Painkiller」Judas Priest

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動画はこちら
https://youtu.be/nM__lPTWThU

ライブ版
https://youtu.be/jGVuT0PPFdw




 今回も生活の中で流れる音楽と、読んだ本との関わりと、断片的な徒然と、といった話になる。

 娘のココの運動会を観に行った際に、ホコリにやられたのか、健三郎の鼻水がずるずると鳴り出し、それが喉に落ちて咳となった。アパートの外壁塗装が始まった当初に出たのと同じ症状で、コロナっぽさはない。病院では「ヒトメタニューモウイルス」の検査をした。要は鼻水・熱・咳の症状の出る風邪だ。コロナ検査と同じく、鼻水を採取するために細長い白い綿棒を鼻の奥に突っ込むやつだ。綿棒を見た瞬間に健三郎は「これ絶対痛いやつやん」と口にした。以前の検査の際の痛みをよく覚えているし、その通りに言葉に出来ている。ついさっきまで楽しそうに小児科の先生と話をしていたのが恐怖に怯える。鼻に綿棒を突っ込まれて号泣している健三郎を、私は慰めるために抱きかかえた。

 その瞬間、ジューダス・プリースト「Painkiller」が頭の中で鳴り響いた。

「彼は、痛み止め! これは、痛み! 止め!」
 かつての王様のように直訳してロブ・ハルフォードに歌わせてみる。
 いつもなら診察が終われば先生に向かって愛想よく「ありがとうございました」だの「先生さよなら」だの挨拶するのに、黙ってキティちゃんのスリッパをスリッパ刺しに置きに行く健三郎。「挨拶は?」と訊くと、再び涙目になる。とにかく早く家に帰りたそうにしていた。私は生きている鎮痛剤として再び健三郎を抱っこした。

 痛みに強い人、弱い人がいる。
 精神的にタフな人、脆い人がいる。
 私は前者であるとされている。「一日他の人に仕事を代わってもらったら、その人が体調不良になった」「中学生なら毎日自殺してもおかしくないような環境だった」「泥辺さんは人間じゃないから」といった扱いに慣れている。現在の職場でも勘の良い上司に既に見透かされている気がする。私には些細なミスでも気軽に怒鳴りつけるが、私の先輩にあたる人が割と大きなやらかしをした際には、むしろ優しく接していた。自分のミスで既に傷ついてしまっている人を、それ以上傷つけてしまわないように、といった態度で。おそらく私に対しては「こいつは何を言っても傷つかないし、そもそも『傷つく』という概念を持っていないから」と思われている。大体合ってる。

「しげる」という業界用語がある。真夏の肉体労働の際など、身体の水分と塩分が多量に出ていくのが分かっている作業の前に、あらかじめスポーツドリンクや塩分タブレットを摂取しておくことだ。作業後に摂るのは当たり前だが、あらかじめ取り込んでおくことで、作業中にへたり込むようなことがなくなる。「今日暑いし量も多いからしげっとけよ」といった風に使う。語源は福本伸行の漫画「アカギ」の中で、負けたら血を抜き取られる特殊ルール「鷲津麻雀」を打ちに行く際に、主人公「赤木しげる」が、あらかじめ体内に血を輸血していたことによる。

 もちろんそんな業界用語は存在しないのだが、私は赤木のように、ダメージを受けても問題ないように、あらかじめ栄養を摂取している。朝目覚めればトイレに入る。入れば、腸内全てを出し切るかのような排便が始まる。その間トイレの棚に置いてある本を再読する。しばらく前からずっと大江健三郎の小説を再読している。子どもたちの目が覚めれば、音楽をかけながら布団を畳む。「読書」「音楽鑑賞」という精神的な栄養を、朝のルーティンの最中に自然に摂り入れているわけだ。

 スライムやゴブリンに攻撃をされて、ダメージを1ずつ食らう。HP100のキャラならば、相手が最弱モンスターでも100回攻撃されれば死んでしまう。現実ではそうもならず、些細なダメージならば、自然な回復力の方が勝り、致命傷にまで至ることはない。FFシリーズに「リジェネ」という魔法があり、少しずつHPが回復するというものだ。私は「しげる」による体力・精神力の底上げに加え、自然なリジェネ効果が人より高いのかもしれない。

 前述の職場の先輩は、自らのミスを引きずったまま、次のミスを犯した。大事には至らなくとも先輩の心には酷く響いたようで、その場にうずくまっていた。私は大江健三郎「燃え上がる緑の木」第二部のラストを思い出していた。「救い主」と持ち上げられるギー兄さんが、教会の中でうずくまり、傷つき打ちひしがれている様子を、教会員の前で隠さずにいる。教会員はギー兄さんを遠巻きに後ろ向きの姿で取り囲み、痛々しい彼の姿を見ないように努め、励ましの歌声をあげる。その様子に我慢ならなくなった語り手は教会を飛び出し、足をくじく。

「怪我がなくて良かったです」と私は先輩に声をかけた。上司も決して彼を怒鳴りつけるようなことはなかった。

 樋口恭介「生活の印象」を読む。Twitterで炎上を繰り返した作者が、呟きの延長のような文章を、Googleドキュメント内で綴ったものをまとめた電子書籍である。そこで繰り返し語られる「Twitterの、あるいはネットの怖さ」というのは、私の知っているTwitterとは全然違う。そこは殺伐とした殴り合い、その延長の殺し合いのような世界であるが、私の知っているTwitterといえば、あまり読まれていない感のある更新報告や、時折いいねをもらう、子どもたちの様子を呟くようなところだ。傷つき傷つけ合うような所に自ら近づかなければ、痛い目を見ることもないとは思うのだが、人はそのようなことを理解していてもなお、互いに傷つけ合う生き物であるらしい。「泥さんは人間じゃないから」という言葉がまた蘇る。

「やった! でっかいハンバーグ完成!」というはっきりとした寝言を言う4歳児

というツイートが2リツイート15いいねを獲得した。私の限界はこれくらいである。

「Painkiller」の直訳が「痛み止め」と知ってから、痛みについて考えていた。あらためて歌詞の翻訳を読んでみる。いくつかのサイトで違いはあるが、「ペインキラー」は「痛み止め」「鎮痛剤」ではなく、「救世主」とされている訳が多かった。全ての痛みを引き受けたイエス・キリストのような存在が光の速さでやってくる、というような内容の歌詞をロブ・ハルフォードが高音で歌い上げる。

「燃え上がる緑の木」は、「ギー兄さん」と呼ばれる青年が、森の奥の屋敷で先代の「ギー兄さん」が残していった仕事を受け継ぎ、「オーバー」と呼ばれる老齢の嫗から森の神話を聴き、やがて「集中」と呼ばれる祈りを中心にした教会を開く話である。最初は個人的な小さな集まりだったのが、彼を慕う者らが次々と集まってくることにより、また偶然が生んだような奇跡と共に、教会は肥大化していく。最終的には、自らの生んだ教会から脱出していこうとする道のりの半ばで、かつての学生運動の敵対者の中年たちに投石で殺される。既に以前の襲撃で車椅子生活に陥っていた彼だが、車椅子を走らせて逃げることも可能だったのにも関わらず、投石にむしろ身を投げ出すように、自らを縛り付ける十字架を支えるイエス・キリストのように、車椅子をその場に留め、頭部に石を受け止めて殺される。

「燃え上がる緑の木」は教会のシンボルであり、イギリスの詩人イェイツの詩句から取られている。片側は燃え上がりながら、もう片側では水を滴らせている木のことである。

 息子の検査、ペインキラー、先輩のうずくまり、「燃え上がる緑の木」、自らの痛みに対する耐性、樋口恭介「生活の印象」などの、曖昧なような筋が通っているような繋がりについて考えながら、洗濯物を畳んでいた。もちろんジューダス・プリースト「Painkiller」を聴きながら。ライブ演奏の動画を観ようと調べてみると、スキンヘッドのロブ・ハルフォードは、オーディエンスを見ることなく、しゃがみこみ、頭を下に向け、祈るように歌っていた。頭に血管を浮かせて、祈るように、叫んでいた。

 運動会でココの学年は「ソーラン節」を披露した。運動会が嫌だと言っていたココは、本番が終わってからむしろソーラン節に取り憑かれたようで、何を聴いてもソーラン節の振り付けで踊るのだった。ヤードバーズを聴いても、リナ・サワヤマのカバーした、メタリカの「Enter Sandman」を聴いても。おそらくココのやりたかったことは、みんなと同じように踊るのではなく、一人で好きなようにパフォーマンスすることだったのだ。

 健三郎と二人でマインクラフトで遊んでいたら、健三郎の後ろに回った妻が、健三郎の額にキスをした。私も同様のことを求めたところ、妻に拳で肩を殴られた。
「蚊がいた!」と妻は言った。私には蚊は見えなかった。
 もう一度妻は健三郎の額にキスをしたので、私ももう一度求めた。再び拳で肩を殴られた。
「蚊がいたんだって!」
 蚊が、いたそうだ。

(了)
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