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「チョコレート粉砕工場」ゴンチチ

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https://www.youtube.com/watch?v=-1qlkhtsA4M


 漱石は原稿用紙の前で頭をぼりぼりとかいた。髪が落ちた。新規に浮かぶはずだったアイデアも髪の毛と共に抜け落ちたかのようだった。日付が変わった。晩飯を食べてから随分と経っている、と胃のあたりを押さえたが思い違いで、晩飯は食べていなかった。そういえば音楽をかけることも忘れていた、と漱石は気付いて、手元のスマホでゴンチチ「チョコレート粉砕工場」を再生した。漱石は執筆の際には、歌詞のない曲をリピート再生することが多かった。途端にリズムを取り戻した漱石は、原稿用紙の冒頭に「それから、」と記した。そう書けば自然と物語が転がり始めるのだった。書き出すきっかけに過ぎないその「それから、」は後々消されることも多かった。漱石の原稿の冒頭部分が黒塗りされているのが多いのはそのためだった。「それから、」に続けて漱石は、二人の人物を登場させようとしたら、鴎外の声が部屋の外から響いてきた。

「夏目君、呑もう呑もう、朝まででも、昼まででも、夜まででも構わん」
 漱石が全然構わんわけでもないことにはお構いなしに、鴎外はやってくる。書生が追い払っても塀を乗り越えてくる。警察を呼んだところで、鴎外が煙に巻いて追い払ってしまう。家族は諦めてここまで通してしまったのだろう。
「鴎外先生、私には締め切りが近い原稿があるのですが」
「紙とペンを持って呑みに行けばよろしい」
「少しは形にはしておきたいのです。あと三時間ほど待っていてくれませんか」
「そんなに待っていたら明日の夜になってしまう」
「今から三時間後は夜中の三時です」
「すると今はちょうど夜の十二時だというのか」
「人の家を訪ねるには非常識な時間です」
「ならば寝て待とう」鴎外は漱石の正論はスルーしかしない。
「出来れば明日まで寝ていてください」
「入るぞ」
 漱石の返事を待たずに鴎外はドアを開けて書斎に乗り込んできて床に寝転がった。
「じゃあ、おやすみ」分厚い英和辞書を枕にして眠ろうとしている。
「ここでですか?」
「ちょっと音楽をメタリカに変えてくれんかな。激しい音楽なしでは眠れんのだ」
「私は執筆中と言っているでしょう」
「じゃあイヤホンとスマホを貸してくれ」
「ワイヤレスイヤホンが壊れて、近所のスギ薬局で買ったイヤホンしかありませんが。ノーマルポジションのカセットテープみたいな音質ですよ」
「構わん、ならばグランジを聴くまでだ」
 人のスマホを強奪した鴎外の耳にはめられたイヤホンから、ニルヴァーナ「All Apologies」のイントロが漏れ始めると鴎外はいびきをかき始めた。

 漱石の原稿は「それから、」で止まったままだ。いっそ鴎外の行状を詳細に書き起こしてゴシップ雑誌に持ち込んでやろうかと漱石は考えた。しかし鴎外先生の名声が鳴り響くこの大正の世では、本人が揉み消すまでもなく、マスコミの方から彼を恐れて掲載を見送るに違いなかった。
「三時間経ったか?」鴎外がむくりと起き上がった。
「まだ三分です」
「ふざけるな!」
「何がですか」
 鴎外がイヤホンを外すと、人間椅子「愛のニルヴァーナ」が書斎に響いた。
「イヤホンしながら寝ていると耳が痛いので外すぞ」
「どうぞお好きに。原稿は進んでいません」
「三時間何をしていた!」
「三分です!」

「少しトイレに」と言って漱石は書斎を出た。居間にあるタブレットを持ってトイレに籠もった。ゴンチチ「チョコレート粉砕工場」を流し、Googleドキュメントで執筆を続けようとした。本当にうんこも出た。
「それから」と打ち込む。主人公の名前を考える。鴎外がトイレの窓から覗き込む。
「それからどうなんの?」
「何をしているんですか先生」
「夏目君には内緒でこっそり酒取って呑もうかと思ってな。酒蔵を探していたら明かりの漏れた窓を見つけた。覗き込んでみると君が何やらうんうんうなっていた。つまり私が言いたいのはこうだ。酒はどこかね?」
「うちに酒蔵はありません。私が今、先生に案内したい場所は留置場です」
「あそこは罪を犯した人の行くところだ」
「とにかく尻を拭くので見ないでください」
「わしは構わん」
「ではもう拭くのは諦めて執筆に戻ります」
「で、それからどうなんの」
「それを今考えているんです」
「そういうことは事前にしっかり構想を練って資料を集めてだな」
「台所にみりんがあります」
「ここに来る前に飲んだ」

 そんな調子で漱石の執筆は進まなかった。「チョコレート粉砕工場」は二人の不毛なやり取りの間も流れ続けていた。その後トイレから脱出した漱石は海を泳いでイギリスに渡り、「ロアルド・ダール」と名前を変えてイギリス人として生きた。後に「チョコレート工場の秘密」という児童小説を発表。「チャーリーとチョコレート工場」として映画化された。

(了)
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