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「夜が明けたら」浅川マキ

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動画はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=F1w4DghEYo4

※前回の「チョコレート粉砕工場」と繋がりはありますが、前回を読んでいなくても問題はありません。


 漱石は結局鴎外に夜中の街へと連れ出された。
「いい店を知ってるから、原稿を持っていきなさい」そう言って鴎外は、トイレから出てきた漱石の腕を引っ張っていった。
「先生、私は呑みたいとは一言も言っておりませんが」
「構わん。私は呑みたい」
「一人で行ってくればいいじゃないですか」
「それでは夏目君が寂しがるだろう」
「広辞苑で『誤解』を引いてください」

「裏窓」という場末のスナックに、裏口から、我が家のように鴎外は入っていった。
 ママの名前は浅川と言った。「いい声で歌う歌手なんだよ」と鴎外は紹介した。
「ウォッカを。夏目君はまだ仕事中だから薬用アルコールを」
「いりません」
 本当に出された消毒用アルコールスプレーを仕方なく手にかけて、漱石は原稿用紙にまた「それから、」と記した。一向にその後の文章は出てこなかった。
「家で書けばいいんじゃないの」と浅川に突っ込まれた。
「私だってそうしたい。なぜここにいるのか分からない」
 鴎外はボックス席に座っている、本当にいるのかいないのか分からないような他の客たちに絡み出している。笑い声が聞こえてくる。
「でもいつも、書けない書けないと言いながら、夜が明ける頃には形になっているんだ」
「夜が明けなかったらどうするの」
「明けるさ、いつだって」
 まだまだ明ける気配のない濃い夜がスナック「裏窓」の窓の外に広がっていた。浅川は「そんな原稿を書いてどうするの」と漱石に訪ねた。

「小説になって、人に読まれるんだ。締め切りが近くてね」
「私の生まれ育った町には本屋なんて一軒もなかったわ」
「とにかく書かせてくれ。夜が明けるまでに」
「夜が明けなければいつまでも書き終わらないわね」
「明けない夜なんてない」書き終わらない原稿だってないはずだ、と漱石は信じたがっている。
「昼に生まれて夕方に死んだ命は、夜明けを知ることなんてないわ」
 浅川はどこか遠いところを見るようにしながら話している。鴎外の近くで肩を組んで稲垣潤一「バチェラー・ガール」を歌っているのは、西村賢太と藤澤清造の私小説作家師弟である。西村君は昨年亡くなったのじゃなかったか、と漱石は訝る。
「亡くなった人は、それまでの人生を何度も何度も繰り返し続ける時間の中に閉じ込められる、っていう話を聞いたことがあるの。あなたは明日の朝まで生きていたの?」
 浅川の話を漱石はよく理解出来ずに首を振った。
「明日も、明後日も、原稿を書くだけさ。鴎外先生に邪魔されなければね」

 それから漱石はビールを一杯注文した。浅川は薬用アルコールスプレーをまた寄越した。

「夏目君、書けてるかあ」すっかり出来上がった鴎外が漱石に絡んできた。
「全然進んでません。それより先生、さっき一緒に歌っていたの、西村賢太君じゃありませんでしたか? 昨年亡くなった」
「細かいことはいいんだよ、どうせみんな死ぬんだ。どうせみんな死んでるんだ。四文字ぐらいしか変わりゃせん」
 浅川は鴎外の前に純米吟醸酒「舞姫」のボトルを置いた。
「死んでも書き続けるような糞真面目もいれば、書いていたことなんて忘れて酒浸りになりたいやつもいる」
「そういえば、さっきママさんが『死者は同じ時間をぐるぐる周り続けている』みたいな話をしていました」
「最近読んだ大滝瓶太『ヒア・ゼア・エブリウェア』という小説では、地球で死んだ人間は遠い星で死後の人生を送っていたな。生まれる前に死んでしまった胎児まで、そこでは学校に行ったり働いたりする歳まで育っていくんだ。そこそこ生きてから死んだ連中は、スマホをいじってSNSのチェックに余念がない。知り合いがこちらに来てはいないかと気になって仕方がないんだ」
「悲しい話ですか」
「私には少し嬉しい話に思えた。そもそもが登場人物の一人である、重い病気で余命幾ばくもない、入院中の中学生が思い描く物語の話かもしれない。自分が死んで消えてなくなることを認めたくなくて、生と死の循環する話を書いているのかもしれない」
 そう言うと鴎外はYES「Roundabout」のイントロを口ずさみながら体を揺らした。鴎外は無断で持ち出した漱石のスマホに、勝手に「ヒア・ゼア・エブリウェア」をDLして漱石に見せた。そこにはこんな文章が表示されていた。

-------
「卒業旅行とかすればよかったね」
 わたしがいうと、有村さんは、
「だよねー」
 とそこでひとくちだけダージリンを飲んで、
「どうせならお金貯めて海外かな。わたしは夜を見てみたいし」
 といった。
「きれいだよ、夜」
 わたしは笑顔をつくった。有村さんは生まれる前に死んだ。
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 鴎外の「Roundabout」に起こされたのか、店の隅に置いてあるピアノが鳴り始めた。そんなものがあるだなんて誰もが忘れていた代物であり、ピアノの前に座るピアニストは鍵盤の上に突っ伏して寝たままであった。それでもポロポロと鳴るピアノに合わせて、浅川が歌い始めた。


夜が明けたら一番早い汽車に乗るから
夜が明けたら一番早い汽車に乗るのよ

夜が明けたら 夜が明けたら
夜が明けたら 一番早い汽車に乗るから
切符を用意してちょうだい
私のために 一枚でいいからさ
今夜でこの街とはさよならね
わりといい街だったけどね


「とにかく夜が明けるまでに原稿を仕上げないと」
 裏町の裏通りにある店の裏窓を百年震わせ続けてきたような声で歌うママの長い黒髪に見とれて、原稿のことを一瞬忘れていた漱石が正気を取り戻して言う。
「夜が明けるのかね」そう呟く鴎外はもう眠ってしまいそうだ。
「書かれることのない小説と、書かれても読まれない小説と、そう違いはないのではないか」鴎外の言葉に漱石は首を振るが、反論の言葉はうまく出てこなかった。

 夜が明けたら、と浅川は歌い続ける。漱石は本屋のない町で育ったという彼女の少女時代のことを想う。幼い頃からその町で彼女と過ごしていたら、小説を書き始めることなんてなかったかもしれない。ピアノの下から黒い猫が這い出してきてピアニストの脛を引っ掻いている。ようやく起き出したピアニストが手を動かす。滑らかに鍵盤の上を滑っているのに、その音は漱石の耳には届かない。酒を用意するのも忘れてカウンターの中で歌い続ける浅川に、漱石は見とれたままでいる。西村賢太と藤澤清造はいつの間にか店からいなくなっている。鴎外は近づいてた黒猫にドイツ娘の名前を呼びかけている。漱石は原稿用紙にまた「それから」と記した。「代助は」と続けた。

 夜はまだまだ明けそうにない。

(了)


※生まれ育った町に本屋はなかった、というエピソードは浅川マキの著作「幻の男たち」より。ライブ中に眠るピアニストは渋谷毅という人のエピソードも同書より。
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