フローリアから脱出したウォルトたちはサーペント港をめざしていた。
何も知らないジテンたちが丙武らのいるフローリアに戻らないとも限らない。そこでウォルトは伝令としてボタンを向かわせていた。
ジテンたちの足取りはようとして知れない。ウォルトからレビを助けに行っているはずだと聞いたが、そのレビだってどこにいるのやら。
いったい何日探し歩いただろう。また夜がくる。
たいまつを作るためにボタンは枯れ枝を集めていた。
南西の空が赤い。もうとっくに日は落ちたはずなのに。山火事だろうか。ここから南西は禁術汚染地帯で人は住んでいない。もしかしたらジテンたちではないか。
ボタンは誘われるように南西へ歩いた。
黒煙の伸びる根元の水面に赤い火が反射している。その明るさはたいまつがいらないほどで、行く手を照らしてくれた。
山火事ではない。近づいてみてわかったが、燃えているのは木ではなく天幕だった。マンジの手下の亜人たちが、自分たちの天幕を焼いている。
マンジだけがただひとり正気を失っていない。そのマンジを炎きらめく泉の前でジテンたちが取り囲んでいる。
多くの部下を失い、自身も追い詰められているのに取り乱す様子は一切ない。
「ジテン。今フローリアには君のいとしの人ヒャッカが来ている。こんなところで遊んでいる場合なのか? 急いで帰ったほうがいい。旦那のネクル子爵もいっしょにいるからな」
マンジの言葉に嘘はない。確かにフローリアにはヒャッカがいる。だがボタンは知っていた。フローリアはすでに丙武によって再占領されている。今帰ればジテンはたちまち殺されてしまうだろう。
「ジテーーーーーーン!」
ボタンの声は届かない。
ジテンは退きも進みもせず、欠けた左耳をなでていた。本当はすぐにでもフローリアに帰りたい。だが感情の奔流に身を任せて、取り返しのつかぬことをした。ジテンを助けてくれた大人たちに、恩をあだで返した。振り回されてなるものか。
「会いに行くよ。お前を倒してからゆっくりと!!」
ジテンは迷わずの短剣を抜いて、マンジの首を狙う。
兜と鎧の隙間を狙ったが、刃が通らなかった。首筋に達しないどころか、鎧に傷一つ付かない。
マンジは大剣で振り払った。
跳ね飛ばされたジテンはいったん距離を取る。
出遅れたケーゴは宝剣を掲げて、炎を放った。
渦巻く炎にひるんだのか、マンジはおおげさにかわす。先回りしていたショーコがすでに短剣を抜いて、待ち構えていた。懐に入られてしまえば、大剣では取り回しが効かない。ショーコは大きく開いた兜の開口部に短剣を突き刺した。読んでいたマンジは大剣の柄で短剣をいなす。
メン・ボゥが投げナイフをばらまいて追撃するが、マンジの剣圧ひとつではじけ飛ばしてしまった。
ジテンたちの武器はどれも刃渡りが短い。マンジの剣技をかいくぐり、なおかつ鎧の隙間を狙って当てたとしても、致命傷にはならないだろう。
完全に油断したところを不意討ちでもしない限りは、討ち取ることは難しい。
アンネリエは自分だけが何もできないもどかしさから、呪文の詠唱を試みた。武器で決定打がない以上、魔法を使えた自分が頑張らなくては。気持ちだけ焦って、口を開いてみても声が出てこない。
両親を殺されたとき以来、引っ込んでしまった声は未だに出てきてくれなかった。もうどうやって声を出していたのかがわからない。皆が簡単に言葉を交わしているのを見るたびに、人知れず傷ついてきた。
無理やり搾り出した吐息にかすかに声のようなものが混じる。それはとても言葉と言えるものではなく、動物の鳴き声のような不格好な声だった。
それでも自分の声だ。久しぶりに聞いた、自分の声。
「よくやったアンネリエ。先は長いんだ、ここは俺にまかせとけ」
ケーゴはアンネリエのことをよく見ていたので、魔法を使おうとしていることに一早く気付いた。そしてアンネリエの代わりに宝剣をかざして炎を放つ。
魔法を使うことはできなかったが、武器が当たらない相手には魔法で攻めるという意図は伝わっていた。どんな声であれ相手に意図が伝わったなら、それはりっぱに言葉として機能していると言って良いだろう。
宝剣の炎にマンジはたじろぎ、あとずさる。
追いついたボタンが逃すまいと物理魔法を放った。
「クリスタルナハト!」
足元から突き出した水晶の群れがマンジの背中に向かって飛んでいく。
前からは宝剣の炎、後からは水晶の群れ。逃げ場はない。
一顧だにせずマンジは後に飛びのいた。後頭部、左肩、右わきの下、左わき腹、右腰、左外もも、右ふくらはぎ。水晶が突き刺さり、マンジは動かなくなった。
「やった。間に合った。ジテンがマンジの甘言に惑わされそうになったとき、もうダメかと思った」
「どういうこと?」
ジテンの疑問にボタンは答えた。
「あなたがマンジの口車に乗って、フローリアに帰っていたらきっと殺されていた。フローリアは再び丙武の手中に落ち、ウォルトたちは今サーペント港を目指しているから」
「なんだって!」
ジテンはまた悩まなくてはいけなくなった。ヒャッカに会うためフローリアへ行くか、ウォルトと合流するためにサーペント港へ向かうか。
マンジに突き刺さっていた水晶が蒸発でもするように煙となって消えていく。
「まだ終わってないぞ、気をつけろ!」
ショーコの呼びかけに応じて、皆が身構える。心に迷いがあったジテンだけが、ただ一人逃げ遅れた。
ジテンののど笛をマンジがつかんで、左手一本で持ち上げる。
苦悶の声を漏らしながらも、ジテンはマンジを観察した。憎いこの男にここまで近づけることはめったにない。この場で絶対に倒す。そのために弱点をみつけたい。
マンジの黒い鎧は水晶で穴だらけになっている。後頭部の穴からは茶色い髪の毛が見え隠れしていた。血は一滴も流れていない。穴から見える限りでは体に傷ひとつついていないようだった。
もう少しで何か思いつきそうだったが、気が遠くなる。
ボタンは魔法を撃てずにいた。マンジだけに当て、ジテンにだけ当てないような精密さには自信がない。
メン・ボゥが投げナイフを構えると、マンジはジテンの体を盾にするように突き出した。
誰も身動きがとれない。
そのとき地割れを作りながら、伝説の剣を引きずる男が突っ込んでくる。レビだ。後方にはドヤ顔で腕組みしているベルウッドもいる。
マンジは右腕の大剣でレビと打ち合ったが、しだいに押され始めていた。ついに左外ももに空いた穴にレビの剣が当たる。
初めて手傷を負わせることができた。しかし剣には返り血が付いていたが、左外ももからは血が流れていない。
マンジは左手ひとつでジテンを放り投げた。そして両手で大剣を握り直し、猛然とレビに打ちかかる。
今度はレビが押されていた。
剣では敵わない。魔法ならば。
ボタンは魔法を詠唱する。自分の両親の仇をとった自分だけの固有魔法に、ボタン・フウキはこう名付けた。
「ナハトデルランゲンメッサー!」
ボタンの手のひらに集まったマナが大量のナイフを生成していく。けれどマナが不足しているのか、ナイフは宙に浮かんだままでマンジに飛んでいかない。
白い手がボタンの手の甲に重なる。同じ境遇のアンネリエが手を伸ばしていた。
自分は魔法の詠唱はできないけれど、それでも力になりたい。アンネリエの思いが暖かなマナといっしょに伝わってくる。
二人分のマナがこめられた魔法が今発動した。
ナイフの大群がマンジに向かい、四方八方から貫く。
狙いは正確だったはずだ。鎧に空いた七つの穴すべてに命中したのだから。
体に刺さっていたナイフが煙のように消えていく。マンジはまったくの無傷だった。
「そんな」
ボタンは足から力が抜けてへたりこんだ。目を覚ましたジテンが助け起こしながら、耳を疑うことを言う。
「もう一度だ。もう一度さっきの魔法は撃てる?」
「アンネリエがマナを分けてくれたから、あと一回だけなら。でも見たでしょ。あいつにナハトデルランゲンメッサーが効かないの」
「うん、魔法は効かない。それでもきっとあいつを倒せるよ」
ジテンはマンジを観察して思いついた策を皆に伝えた。
ボタンとアンネリエが手を重ねてマナを集める間、レビがマンジをひきつける。伝説の剣は常に接地していなければならず、小回りが効かない。すぐに限界がきた。レビはマンジに打ち負け、跳ね飛ばされる。が、きっちり時間は稼げた。
マンジの周りをナイフの大群が取り巻いている。鎧に空いた穴だけを狙うのではなく、ナイフは満遍なく散らばっていた。
これはまずい。
マンジは瞬時に決断して、鎧を脱ぎ捨てた。
おそらくジテンはマンジの特性に気付いている。マンジの鎧はどんな刃物も通さず、マンジの肉体は魔法がまったく効かない。
だから魔法で鎧を破壊されないように脱ぎ捨てた。
大量のナイフが浴びせられるが、マンジの肉体に触れたそばから煙となって消えていく。
マンジが大剣を振りかぶり、レビににじり寄った。
腹に鋭い痛みが走る。レビが何かしたわけではない。一本だけ短剣が腹に突き刺さっている。短剣は煙になって消えることもない。かってに抜けて、ジテンの手に戻ってきた。
マンジは吐血しながら叫んだ。
「まさかまさかまさか……あの魔法のナイフの大群の中に一本だけ本物の短剣が混じっていたのか!」
一本だけではなかった。
ショーコもメン・ボウもすべての短剣とナイフを投げつくしている。
背中が燃えるように熱い。マンジはびっしりとナイフが突き刺さった背中から、仰向けに倒れた。倒れたことでナイフはより深く刺さる。
マンジの顔色は土気色で、腫れぼったい唇は青紫色だった。普通の死人の顔だ、とりたてて特徴のない。
「ケーゴ、宝剣の炎でこいつを焼いてくれ」
「ジテン。こいつはもう死んでるよ」
「頼むよ。怖いんだ。化け物は死んだのかわからないから」