VOL.3 胸騒ぎ
柳原にとって事故を起こしたことよりも、車中に同乗していたことで、事件の当事者の一人となった若葉を不憫に思った。
(若葉に、あの幼さで罪人の家族の汚名を着せられん)
家のメンツや地位に連綿としていることも事実だが、前途有望、明朗活発な孫娘の人生に影が差すことだけは避けたかった。
(あの娘の性格からして、学校で苛めにあう心配はなさそうだし、このまま時が過ぎるのを待てば、難なく乗り切れるだろう。幸い被害者にもさして注目を浴びる者はいなかったようだし)
日本のマスコミが公正などと信じる者は、少なくなった昨今。殺人においても被害者の地位が低い、もしくは話題性に乏しければ、その背景である事件自体も取り上げられない。世間の非難の目を回避できたことに加え、幸いにも若葉に怪我がなかったことだけが、柳原の何よりの救いだった。
『おじいちゃん、新しい車、届いたんだね』
昨日、少しだけ複雑な表情で、納車されたばかりのハイブリッド・ハッチバッグの朱色に輝くスポーティなセダン。その真新しい車を見つめながら呟いた、若葉の言葉を思い出す柳原。
『おじいちゃんは免許返納とか、しないんだ?』
『ああ、車がないと自由に外出ができないからね。でも、大丈夫だ、もう事故なんて起きないんだから』
誤作動防止の様々な装置を兼ね備えた新車だから大丈夫、祖父の言葉を孫娘はそう捉えた様子だ。
『私は免許とか、少し怖いな。高校3年になったらすぐ自動車学校通おうと思っていたけど、考える』
あれほど車好きだった孫娘の変化に、祖父が落胆したことは言うまでも無かった。目の中に入れても痛くない孫娘、その愁いを帯びた表情に何か言い知れぬ不安と、気忙しくなるような錯覚を覚えたのもこの時だ。
「若葉は、もう出かけたのか?」
妻の織江に尋ねる。事故以来、めっきり外出が減った柳原夫妻。
「ええ、水泳の練習があるって、ついさっき」
フランス製の書棚の上には、叙勲を受けた際の記念品や、書状。それに彼の輝かしい人生に纏わる数々の記念品が並ぶ。それに並びかけるようにプールサイドで優勝トロフィーを片手に微笑む、若葉の写真が飾られている。
「そうか、送ってやればよかったな」
運転手の江川も本日は不在であることを思い出し、気忙しくなる柳原だ。心身の成長や環境面を考え、小学校からお受験をと勧めた柳原の言葉に、息子夫婦は義務教育の期間くらいは、のびのびと育って欲しいという願いを込めて区立の小学校に通わせることを選んだ。無論、そこには庶民派を気取る父親の、政治家としての計算もあったことは否めない。確かに若葉はその名の通り、新緑が芽を吹く様に、てらいなくまっすぐ育っている。しかし、今度のような事件に巻き込まれると、彼女の身の安全が守れるのか、という不安も沸き起こる。何の根拠もないが、柳原にはこの時、奇妙な胸騒ぎがしていたのだ。そしてそれは的中することとなるが、この時の彼には孫娘の受難までは予想だにできないことでもあった。