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第9話 すずねと自由律俳句

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 家の中は土日の方が何かと騒がしかった。母親が会議を再開したのもあるけれど、そのほかの理由もあった。
 会議に関しては、コロナが流行り出してから行われていなかったのだけれど、最近になって「なんだかもう、再開していい空気よね」と上機嫌でエルピード仲間とお茶会のようなことをしていた。母親はこれを会議と称していた。
 小学生の頃、会議へ同席したこともあったけれど、やはり根本的にエルピードへの深い興味を持てないこともあって、母親の隣で愛想笑いを浮かべているくらいなら別のことをしていたい、という気持ちが勝るようになっていた。というか、お父さんがついにスマホを購入してくれたのだった。それはもう触る。触り続ける。これまで知らなかった世界が、この薄い板の中に広がっている。色々調べてみる。せっかくだから音声で。
「中学校 いじめ」
 クルクル回って答えが出た。本当に病気なのはいじめる人間の方だ。いじめられる側にも問題がある。いじめられるようなことをしている方が悪い。環境を変えるべき――この中にわたしの求める答えはないような気がした。そんなこともある。インターネットがどうやら万能ではないことも理解しつつあった。
「エルピード」
 クルクル回って答えが出た。ねずみ講。マルチ商法。品質は普通でも問題は売り方。洗脳──よく分からないし、それ以上のことを知りたいとは思えなかった。
「自由律俳句」
 五七五の定型俳句に対して、定型に縛られない俳句のこと。季語もなく、感情を自由に表現することに重点が置かれた表現方法。
 スマホと一緒にお父さんがくれたのが、自由律俳句の本だった。有名な芸人とよく知らないおじさんが並んで表紙を飾っている。わたしのこれまでの人生の中には存在しなかった言葉だった。自由律俳句。
「ちょっと前にラジオで聴いてさ、面白いなって思って買ってみた。すーちゃんにもオススメ」
 お父さんはこの十三年間、わたしのことをずっとすーちゃんと呼んでいる。赤ちゃんの頃から今に至るまでずっと。いつまでこう呼ぶんだろう? 高校生になったら? 成人式に出たら? 就職したら? 結婚したら? 赤ちゃんを産んだら? あるいはそれ以外のどんな未来でも、ずっとお父さんにとってわたしは“すーちゃん”なんだろうか。
「面白そうだね」
「面白そうっていうか……面白かったよ。俳句って堅苦しいイメージあったけどさ、自由律は全然違うんだよ。自由だよ」
「パパ、そのままじゃん」
 わたしは声に出す時はお父さんをパパと表現してしまう。人のことは言えないなと思う。
「そのままだね。だけどさ、すーちゃん。自由は大事だよ。自由がどれほど貴重で尊いものか、いつか君にも分かるときがくるんだって」
「そうなんだ」
 実は、今でも少しだけ分かっている気がした。中学生になって、わたしの心は牧場の柵みたいなものに囲われていた。柵の外に出たいのに、四方隙間なく柵が敷き詰められていて内側をのたうち回っている感じ。これは苦しいし息がしにくいな、と感じることが日常茶飯事となっていた。まだなんとか耐えられると思うけど、でも、そろそろ深呼吸をしたいな――そう思い始めていたところだった。
「とりあえず読んでみるね」
「それがいい。オススメだよ、本当に」
 やっぱり自由なんだよなぁ、一番必要なものは。至って真面目な口調でそう呟いていたお父さんは、母親とよく口論するようになっていた。
 ……んだ、この……の山は! お前、どれだけ……の家計を圧迫すれば……済むんだ⁉︎
 上手く……じゃないの! 今は……でも、ES……しての研鑽と功徳を積めば……黒字転……んだから‼︎
 聴きたくないけど、どうしても断片的には聴こえてしまう。完全に意識から追い出すことは叶わない。平日は学校で、土日は家で、わたしの中の囲いが開放されることはないのだろうか。
「……捨てきれない 荷物のおもさ まへうしろ」
 これは「自由律俳句 名作」で検索したら出てきた種田山頭火という人が書いたという句だった。囲われている乾ききったわたしに、一粒の水滴が落ちてきたような心地になった。
 そうか、こういうことか。読んでも何も変わらないけど、何か心にすとんと落ちる気がする。何が? 感情が。乾くとは感情を失うこと。潤うとは、感情が満ちること。分からないけど、自分の中ではそういうことになりそうだった。
 自分にとって大事であるはずのものが崩壊していく予兆を感じながらも、わたしは自由律俳句を読みたいと思った。下手でもいいし、誰にも届かなくてもいいけど読みたいと思った。そう、自分の心を潤すために。
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