朝。桜島フェリー乗り場まで歩いて、桜島を礼拝する。どれだけ周りに変化が起きても、このルーティンだけは変わらない。新型ウイルスの感染症が流行して、生活に影響が及び、何もかもが変わってしまった時だって変わらなかった。もしこれを失くしてしまえば、いよいよ自分が自分でなくなってしまうだろう。
この儀式によって心は静まり、思考は整理され、自分の身に起きている何某と向き合う事ができる。すべて桜島のおかげだ。彼はどんな時も変わらず、静かに見守ってくれる。それだけで俺は幸せで、他には何もいらない。
そう思えていたのに、今はどれだけ桜島を眺めていても満たされない。その原因はよく分かっている。誰かと一緒に桜島を眺める楽しさを知ってしまったからで、いまは一人だ。不誠実だろうか。だから、桜島の声が聞こえなくなったのだろうか。
俺の心には、桜島の火口のように大きな穴が空いたみたいだ。だが、どうやればこの状況を良い方向へ持っていけるのか。答えは未だに見つからない。
野村と話をして、理解し、慰めてやればいいのか。
高崎の仕事を手伝って、負担を減らしてやればいいのか。
ここまでは考えついた。しかし、どれも余計なお世話じゃないのか。慰めや手助けをされることが負担に感じる事だってあるじゃないか。
一度、失敗をした事で自信を失ってしまい。思いついたところで行動に移せない。いや、移すべきではないように思う。
途方に暮れてフェリー乗り場の堤防を歩いていると、近くのベンチに座っている男が手を振っていた。
「孤独さん。こんにちは」
「ああ、すっかり顔なじみになってしまったね」
「本当ですね」
「ここにはよく来るのかい」
「ええ。景色と雰囲気が好きで毎朝来ています。孤独さんとは俺の好きな場所で会う事が多いですけど、それは趣味が共通しているからですよね」
だからこそ、孤独さんと会うと、毎回気分が良くなる。
「そうかもしれないね。私はフェリーが出港していく姿を眺めるのが好きだ。桜島フェリーが市街地と桜島を結ぶだけの短い距離だというのは分かっているが、船出というのはいつだって希望を感じさせてくれる」
「確かに、俺もそう思います」
タイミングよく出港するフェリーを眺めた。
「それにしても、今日の桜島は元気がない」
「元気がないですか、しっかり噴火しているようですけど」
「煙を上げているが、今日は今一つ力強さを感じないんだ」
本当だろうか。
そんな事はこれまでに感じたことがないし、先程まで桜島の偉大さに見惚れていたところだ。だから何が違うのかまるで分からなかった。
「桜島だって日々変化している。桜島と大隅半島が陸続きで繋がったのだって、たった百年前の事だ。だから変化しないものなんてない。むしろ変化が起きるのは当たり前の事だ」
「当たり前のことですか」
俺は変化を恐れて、苦しんできた。だけど、それは当たり前の事だと諦めて、受け入れるべきなのだろうか。
「変化といえば、君の顔立ちはまた変わって、今は孤独の顔つきをしている。何というか、初めて会った時に戻ったようだ」
「まあ、いろいろあったんです」
「だけど君は孤独を愛している訳ではないようだね。どうやら、孤独に震えているように見える」
「流石、何でもお見通しですね」
何となくだが、孤独さんも冴えない顔をしているように見えた。
「やっぱり、分かるよね」
「え?」
「察しの通り、今の私はあまり元気ではない。前にも言ったけれど、孤独とは全てを一人で抱えなければならなくて。もし私の中にある負の感情を抱えきれなくなった時、私は一体どうなってしまうのか。分からないんだ」
孤独さんは読心術を持っているのだろうか。そして、随分と不吉な話である。
「私はこれまでに何回も偉そうな事を言ってきたけど、実際は孤独になってまだ日が浅い。覚悟を決めたつもりだったけど、揺らいでいる。会社が倒産して、家庭が壊れてからまだ二、三年。孤独に慣れていないようだ。だから、孤独の先輩なんて言える程の立場じゃないんだ」
「何かあったんですか。話せば楽になるかもしれませんよ」
「それを話してしまえば、私は孤独ではなくなる」
「孤独に拘る必要があるんですか。貴方の言う通り、俺は孤独を愛していません。だからその気持ちは理解できないです」
「私に残されたものは孤独という個性だけだから、拘っているんだ。自らの個性に縋りたくなる気持ちは何となく分かるだろう」
「分かります。俺自身、好きな事を譲れない経験は何回もありましたから」
「良かった。そうやって共感してくれるのはありがたい。やはり、私はまだまだだな」
孤独さんは口惜しく言って、フェリーの出入りする錦江湾を眺めた。
「少し、気が楽になったよ」
「良かったです」
「お礼と言ったらおかしいかもしれないが。少し仕事を手伝ってみないか。物事の見方が変わるかもしれない」
「仕事ですか。まあ、自分でよければ、手伝います」
彼に誘われるのは初めての事で驚いたし、お礼に仕事を依頼するというのはおかしな話だと思うが、孤独さんの依頼を断る訳にはいかないだろう。
案内されたのは近くの広場で。運動会で使われているようなタープ式のテントがポツンと置かれており、テントの下では何人かで作業をしているようだった。
「君は料理ができるかい」
「ええ、アウトドアで慣れてますので」
「そうか。まあ、今日作るのは豚汁だから。どのみち難しい作業はないから大丈夫だろう」
「炊き出しですか」
「ああ。地元企業が善意でやっている活動だ。私はそれを手伝っている立場で、良い経験になるよ」
それはまるで経験のない事で戸惑ったが、言われるがまま、やってみる事にした。
孤独さんの紹介で、作業をしている人達に挨拶をしてから、簡単な説明を受けて作業に取り掛かった。
作業の内容は大根を切っていくものだった。昼と夕方の二回分、およそ百食分ほどの豚汁を作るそうで、担当する大根が山積みになっていて、気が引けてしまう。
だが、泣き言は言っていられない。すぐに皮むきと大根を切る作業に取り掛かった。大根は皮を剝かない方が美味しいのだと、提案してみたが、万人受けするものを提供するべきだと却下された。
一時間ほど黙々と作業をした。屋外で何かを作るのは久しぶりで、やはり気分が良かった。
先に切り終えた分から調理は始まっており、大根を切り終えた頃には、最初に提供する分の豚汁が出来上がっていた。
「そろそろ時間だから、人が集まってくる頃だろう」
孤独さんが鍋をかき混ぜながら言った。
気を引き締めていると、彼の言う通り間もなくして、人が集まり始めた。
行列ができてくると、再び作業を分担する事になり、俺は一人一人に豚汁を渡す役割が与えられた。
訪れる人々は小さい子供から高齢者まで老若男女問わず、それぞれ様々な理由や事情があって炊き出しを求めているのだろう。
歯を見せる程の笑顔で受け取る人、無表情な人、こちらを睨みつけてくる程に無愛想な人、反応はそれぞれ違うが、器を受け取るときはみんな頭を下げてくれる。
その様子を見る度に暖かいものが身体の中に溜まっていくような気がした。
慣れないながらも何とか作業を進めていくと、昼過ぎには人出がまばらになり、出番の終わった俺と孤独さんは余った豚汁を分けてもらい、近くのベンチで食べる事になった。
最初に汁を啜り、豚肉とネギを口に運び、大根と里芋をかき込む。
美味しい。
労働して汗をかいた後に摂取する塩分は格別だった。
「たまには豚汁もいいですね」
「ああ。以前は私が行列に並んで、恵んでもらっていたのだが、今では私が配る側になった。まあ、厳密にはほとんど立場は変わっていないけどね」
「そうでしたか」
「実際に体験してみて、どうだったかな」
「いままで関わった事のないような人との交流があって、新鮮でした」
「良い体験になったみたいだね。炊き出しはいわゆる慈善活動だが、やってみた気分はどうだい」
「気分も良いです。笑顔が見れたり、見れなくても、感謝してもらえたりで。やりがいがありました」
「そうだろう。この活動は偽善だとか、宣伝目的だとか、節税目的だとか、散々言われたりするが。これだけ笑顔に囲まれているんだ、何も悪い事はない。偽善だろうが、喜ぶ人がいるなら。意義のある行動だ」
確かに、その通りだと思った。
「君は誰かとの関係が崩れてしまって、その関係を修復したいが、どうにもできずに気を落としている。それならば、もう一度関係を結び直すために、尽力するべきだろう」
「俺も、そうしたいと思ってはいて。でも、どうすればいいのか分からなくて」
「本当は何となく、分かっているんじゃないか。分からなくても、何か、やってみたい事はあるんじゃないか」
孤独さんには全てを悟られているようだ。とても敵わない。
「これはそれなりに人生経験のある中年からの助言なんだけど、大切な物は何度でも死ぬ気で掴み取り、何度でも大切にするべきだ。状況が都合の悪い方へ変化してしまったなら、環境を作り直せばいい。君達は思春期に耐える経験をしたせいで、心にストッパーみたいなものができているかもしれない。だけど、本当にやりたい事は自粛するべきじゃない。最後に自分を救えるのは、自分だけなんだ」
「最後は、自分だけですか」
「そうだ。冴えない中年の意見だが、受け止めて行動してくれたら、現状は君にとって良い方向に向かうんじゃないだろうか」
俺は今回の経験を思い返して、「確かに、その通りですね」と言った。
「また偉そうな事を言ってしまったけど、これは自戒の言葉だ。私は大切な物を守る事ができなかった。足がすくんで何もできなかったんだ。だから私みたいな後悔をしないためにも、行動するべきだと思う」
「はい。おかげで覚悟が決まりました」
強く背中を押してもらえた気分だった。
とにかく行動する。やりたい事はやる。それが俺の信念でもあったじゃないか。
覚悟が決まり、いますぐ行動に移したくなった。
食事を終えると立ち上がり、孤独さんにお礼と別れを告げた。
昨晩、SNSのアカウントに高崎家の旅館が運営しているアカウントからメッセージが届いていた。メッセージを書いたのは高崎父で、高崎が最近、更に元気がなくなっている事を嘆いていた。
先ほどまでの俺は高崎の為に何もしてやれない事を嘆いていた。何かをしたとしても、限りなく遠回りで無駄な行動を選んでしまい、自己満足で心の穴を埋めるところだった。
こんな事を繰り返すのはもうやめにする。
やるべきことは一つ。愚直に行動するだけだ。
コンビニのATMでありったけのお金を降ろし。大学付近に店舗を構える有名な自転車屋へ入店する。そして、以前から欲しかったクロスバイクを購入した。
店員に体格を測定してもらうと、自転車の調整が始まった。受け渡しまではしばらく時間がかかるらしく、店外のベンチで待つ時間がもどかしかった。
昼過ぎにも拘わらず、隣のラーメン店には絶えず行列ができていて、客の出入りする様子をぼんやりと眺めた。
それから三十分ほど待って、ようやく店員に呼ばれると支払いを済ませて、クロスバイクを受け取った。
これで準備は整った。あとは高崎に俺の想いを伝えるだけだ。
俺はクロスバイクに跨って、錦江湾を渡り、桜島へ上陸する為、フェリー乗り場へ急ぐ。
クロスバイクのペダルを漕いでいると、藺牟田池での過ちを嫌でも思い起こされるが、今は悪い思い出も飲み込んで先に進まなければいけない。
夢中になってペダルを漕いでいると、あっという間にフェリー乗り場へ到着する。ここを訪れる時はいつも徒歩か路面電車を利用するかだったので、新鮮な感覚だった。
改めて錦江湾とその先の桜島を見据える。
本当の壁はここからだ。錦江湾を渡って桜島へ上陸するためには、過去のトラウマによる水への恐怖を乗り越えなければならない。
あまり深く考えすぎない方がいいだろうと、すぐに行動を始めて乗船所の近くへ来たが、受付の仕方が分からなかった。どうすればいいのだろうかと辺りをうろついていると、係員に声を掛けられ、自転車の場合は切符が必要なく、乗用車と一緒に船内へ入ればいいと教えてもらえた。
切符を用意しなくていいことに驚きつつ乗船口まで案内されると前後を自動車に挟まれ、窮屈な思いをしながら乗船した。
自動車を駐車するエリアの脇に自転車を固定すると、あとは出港を待つだけとなった。ここまでは初めての事に驚かされてばかりで、トラウマを思い起こす暇がなく、恐怖する事もなかった。だから、本当の戦いはこれからだ。
桜島フェリーは四階建ての構造で。一、二階が駐車スペースとなっており、乗客は三、四階の客室や甲板で過ごす事が一般的なのだが、少しずつ恐怖に蝕まれている俺は足が竦んで二階から動けなくなった。
いつしか出港の時を報せる汽笛が鳴り、それをきっかけに動悸を感じる。
心臓を鷲掴みされたような胸の痛みがして、息が詰まる。
どうすればいい。どうすればいいと、繰り返し頭の中で唱える。
このままではまずい。切迫する気持ちを落ち着けるために目を閉じて、息を静める。しかし、それは逆効果で、瞼の裏に俺のトラウマがフラッシュバックした。
船体に海水が入ってきて、少しずつ船が沈んでいく。俺は恐怖で泣き叫び親に抱き着いていた。あの日の光景が、音が生々しく再生される。
エンジンと船体にぶつかる波の音を聞きたくなくて、自然と耳を塞いでいた。そのまま壁に身体を預ける。
あまり取り乱しているとフェリーから降ろされるかもしれないと思って、必死に落ち着こうとする。
落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。
息を大きく吸って、吐いて。再び吸って、目を開ける。
視界の先には太陽光を反射して輝く錦江湾の海面が広がる。そしてフェリーの先へ視線を動かすと桜島がいつもと変わらない様子で佇んでいて、それは、とにかく美しい景色だった。
眩くて、目を塞ぎそうになるのを堪えて桜島を眺める。
そうしていると、いつしか動悸は落ち着いていく。やはり桜島は俺に勇気を分けてくれる。
恐怖が完全に消えた訳ではないが、じっくりと錦江湾を見渡す事ができるようになった。
これが海か。
幼少期以来だから、ほとんど人生で初めてに近い体験で、まるで大航海時代だと思った。
船が揺れて、波が飛沫を挙げても立っていられる。
大丈夫だ。
これなら、桜島まで渡る事ができる。
そして、渡るだけでは終わらない。
長い間、念願であったうどんを食べよう。
知らない人からすれば、意味が分からないだろうが、桜島フェリーの船内には、有名なうどん屋があるのだ。もしトラウマを克服した時にはフェリーの上でうどんを食べたいと思っていたのだ。
俺は船内の売店へ移動してうどんを注文し、配膳されるのを待った。
誰もが気にする点だが、航海の時間は鹿児島市街地と桜島を結ぶ約十五分だけなので、限られた時間の中でうどんを食べ終わらなければならない。この制約によって、大変、スリリングな気持ちにさせられる。もしも十五分以内に完食できなければどうなるのか、その答えは誰も知らない。
間もなくして配膳されたうどんは精神的に消耗した状態の身には丁度良いあっさりした味わいで、素晴らしいロケーションの中で麺を啜っていると心が休まっていくようだった。
売店に空のどんぶりを返却した頃には桜島側の港が近くに迫っていたので、俺は慌てて駐車スペースへ向かった。
フェリーから降りる際も係員の案内に従って、周りの自動車と並び、窮屈な思いをしながら桜島へ上陸した。
それから地面の感触を足の裏でしっかりと味わい。大きく息を吸って、吐いて。頭を下げる。
「お邪魔します」
桜島に挨拶をするが、返事はない。少しだけ残念な気持ちになるが、俺の事を静かに見守ってくれているのだと、前向きに捉える事にした。
後はクロスバイクを走らせて旅館へ向かうだけだ。道中は坂道が多く、傾斜は険しいが、トラウマを乗り越えた時の苦痛と比べれば大した問題ではなかった。道のりは一本道なので迷うことなく到着し、旅館の中へ駆け込んだ。
「隼人君じゃないか」
両眼を見開いて出迎えてくれたのは、高崎のお父さんだった。
「はい、俺です。何とかしようと、落ち着かなくて。飛んできました。いや、走ってきました」
「走ってきたって?」
「自転車です」
「凄い。大変だったね。まさか、こんなに早く来てくれるなんて。ありがたい。令和の男とは思えないほどに立派な心意気を持っているようだ。やはり、君には娘を嫁に貰ってほしいくらいだ。いや、もしかして貰いにきてくれたのか」
「令和がどうとか、男だからどうとかいうのは時代錯誤ですよ。あと、アイツを貰いにきた訳ではありません」
「ははは、そうだよね」
相変わらず気さくなお父さんである。
「アイツは大丈夫ですか」
「ううん、娘はちょっと外に出ていてね。昔から思い詰めると散歩に出かける癖があるんだ。どこへ向かうのか詳しい話は聞かないようにしているから、いまどこにいるのかまでは分からなくてね、電話をしてみようか」
「いえ、心当たりはあるので行ってみます」
「分かった。助かるよ」
「ところで、お父さんの方こそ大丈夫ですか。だいぶ痩せたようにみえますけど」
先程からずっと気になっていた。高崎父は明らかに頬がこけていて、肌の血色が悪くなった様に思える。
「大丈夫だよ。食欲はあって、ご飯をちゃんと食べているけど、少し瘦せたよね。疲れがたまっているのかな。お客様の疲れを癒す旅館のオーナーが疲労していたら、何か説得力がないから、よくないよね」
確かに、従業員の疲れている姿が見えるのは印象が悪いだろう。
「まあ、この通り。活気はあるから大丈夫だよ」
「そうですか。一応、気をつけてください」
「ありがとう」
彼の弱った様子を見て、高崎が献身的に旅館の仕事を手伝う理由が分かった気がする。だからこそ、自分の浅はかな行動によって高崎に辛い思いをさせた事が余計に悔やまれる。
旅館の敷地を出て、下り坂をクロスバイクで一気に駆け下りる。負荷のかかった運動により火照った頬に冷たい風を浴びると非常に心地よくて、これがサイクリングの醍醐味かもしれないかと思った。この爽快感を誰かと共有できれば、より一層楽しいだろう。
木々に囲まれた坂道を抜けると、視界いっぱいに錦江湾が広がり、間もなくして長渕剛を彫刻した『叫びの肖像』が姿を現した。像の周囲には観光客が数名居て、その中に高崎の姿を確認した。
像の近くでクロスバイクから降りて、高崎の下へ近づき、声を掛ける。
彼女は振り向いてから、「隼人君、どうしてここにいるの」と、あまり驚いていないような表情で言った。
「高崎のお父さんからさ。高崎が落ち込んでいるから励ましてくれってお願いされたんだ。だから、高崎を励ますために来た」
「そっか、ありがとう。だけど、私は平気だよ」
高崎は否定するが、ここを訪れている時点で、本当は辛い気持ちを堪えている事くらい分かる。
「それより、ここまではどうやって来たの」
「ほら、これだ。クロスバイクで来た」
「これに乗って、陸路で来たってこと?」
「いや、早くここに来たかったから。フェリーに乗って、錦江湾を渡ってきたんだよ」
「嘘、フェリーには乗れない筈だったよね」
「そうだな。トラウマを完全に克服できた訳じゃないけど、何とか乗れたんだ。それに、フェリーの上でうどんを食べる余裕だってあったぜ」
「凄い。無事に乗れたなら、良かった。それで、そのクロスバイクはどうしたの?」
「高崎に見せてやろうと思い立って。ついさっき、衝動的に買ったんだ」
「ついさっきって。それは本当に凄いね」
「ああ。それでさ、励ますだけじゃなくて、意思表明をしたくてここに来たんだけど。クロスバイクが、それなんだ」
「意思表明って、なに」
「俺はこの先、やりたい事は必ずやる。最初の一歩がサイクリングだ。サイクリングはアウトドアなのか、それともスポーツなのか微妙なところだけど、本人がアウトドアだと思うなら、それはアウトドアなんじゃないだろうか。少し強引で無理がある理屈かもしれないが、この理屈が通ってしまうくらいアウトドアは懐が広いだろう。ワンダーフォーゲル部が登山だけじゃなく、アウトドア全般を含んで活動できるのもアウトドアの懐が広いからだと思うんだよ。それで、話を戻すけど。高崎はサイクリングに興味はあるか」
「いや。あまりないかな」
「俺はずっと興味があったんだ。誰でも小さな頃から、自転車は乗っているだろ。俺は初めて自転車に乗った時、世界が変わったんだよな。このスピードで移動すればどこまでも行けるって、生まれ変わった気分だった。大した性能ではない子供用の小さな自転車だったけど、それだけで感動したんだ。だから街中を颯爽と走るクロスバイクを見た時、アレに乗ると、どんな風に世界が見えるのか知りたかった。本当はもっと早く買うつもりだったけど、我慢していて。それが愚かな事だと気づいて、早速買った。今月のバイト代はクロスバイクを買う為に全て消費してしまったけど、後悔はしてないぜ。自分の足でペダルを漕いで桜島の景観を見渡すのは堪らなく感動したからな。この体験をして、やりたい事を我慢するのは間違いだと改めて思い知らされた。これは高崎と、野村のおかげだ。俺にアウトドアをやれと言ってくれた二人のおかげなんだ」
「私のおかげかは分からないけど。まあ、アウトドアを再開してくれたのなら、良かったかな」
「ああ。アルバイトを増やして、アウトドアを辞めるとか、的外れな事をして、高崎に嫌な思いをさせたのは本当に申し訳なかった」
俺は頭を下げる。
「過ぎた事はもういいよ」
「ありがとう。じゃあ、改めて意思表明の方に戻るけどさ。俺はこの先、やりたい事を必ずやっていく。アウトドアはもちろんだけど。あと、もう一つやりたい事があって。それは、高崎の仕事を手伝いたいって事だ。それを伝える為に、ここへ来たんだ」
「私の仕事を手伝うって、何のために?」
「仕事を手伝って、高崎の負担を減らしてやりたいんだ。そうすれば、高崎がワンゲル部の活動に参加できるようになるんじゃないかって思うんだ」
「それは、そうかもしれないし。そうなると嬉しいけど。でも、ここで仕事をすれば、隼人君がアウトドアをする機会が減ってしまうよね」
「ああ。だけど今の俺は一人でアウトドアをしても、何だか楽しくないんだよ。クロスバイクを走らせている時だってさ。楽しいけど何か物足りない。それは何故か、俺らしくないけど、誰かと楽しみを共有していないと満足できなくなったんだ。要するに、高崎と一緒にアウトドアができないと楽しくないんだよ。だから、もう一度高崎とアウトドアをするために、旅館の仕事を手伝わせてほしいんだ。遠回りかもしれないけど、俺にはそれしかできなくて、それが本当にやりたい事なんだよ」
話し終えると、高崎は腕を組み、考える素振りを見せた後、「本当に、隼人君らしくないね」と言った。
「そうだよな」
「だけど、手伝ってくれるのは嬉しい。アウトドアをまた始めてくれるのも嬉しい。そして、隼人君がやりたい事をできるなら、それが一番かもしれない」
「ああ、そう言ってもらえると、俺も嬉しい」
「じゃあ帰ったら、旅館の仕事を手伝えるか。お父さんに話してみる」
高崎は微笑んでみせた。
その小さな笑顔を見ると願いが一つ叶ったように思えて、心が軽くなった。
「ありがとう。まずは俺のバイトを調整して、ここへ来られるようにする。あと、フェリーに乗る練習もしておく。さっきは格好つけたけど、実はフェリーから降りた時には足が震えていたからさ。帰りにもう一度乗ると思えば気が重いんだよ。情けないよな」
「そんな事はないけど。無理はしないでほしいかな」
「いや、無理じゃない。泣き言を漏らして悪かった。とにかく大丈夫だ。それでもやりたい事だからさ」
「分かった。お願いする」
高崎は頷いて、俺の想いを受け止めてくれた。
願いは叶ったが試練はこれからも続くので、浮かれている場合ではなく。より気を引き締めていかなければならない。それでも、高崎に想いを受けて止めてもらえた事は、嬉しかった。
これでまた、アウトドアを楽しめるだろう。満足感に浸り、少しの間、二人で長渕剛像を眺めていると高崎が、「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」と言った。
その時の高崎は普段よりも和やかな表情をしているように思えた。
抱えていた悩みは無くなったのだろうか。まさか、俺の独り善がりな意思表明を聞いて心が休まったのか。いや、それは無いだろう。彼女の心境はよく分からないが、雄叫びを挙げる長渕剛の姿を眺めた事で、溜まった鬱憤を発散させることができたのかもしれない。
旅館へ戻る道中は、俺のクロスバイク論が白熱して一方的に言葉を投げてしまったのだが、高崎は嫌な顔を一切見せずに頷いてくれたのでとても心地良かった。