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12話 木漏れ日の下の七輪

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 朝晩には、いよいよ肌寒さを感じるようになった十一月。
 孤独さんのおかげで、心の蔦を解き、目の前の靄を晴らす事ができて、この先の目標を明確に捉えられた。
 ワンゲル部のメンバーで揃って、アウトドアをする。それこそ、俺の一番やりたい事で、それを実現する為に、ここ数週間は可能な限りの時間を費やして行動してきた。
 まずは高崎の仕事を手伝って、ワンゲル部の活動に参加する余裕を持ってもらう事を目指した。
 バイト先の店長に頭を下げて、シフトを調整してもらい。少しずつではあるが、現在はシフトを減らす事ができていた。バイトを辞めてしまった方が手っ取り早いように思えるが、そのやり方は高崎に余計な気を遣わせてしまう気がしたので、現在のバイトと旅館の仕事を両立する方法を選んだ。こちらの都合でシフトを減らしてしまうので、店長には申し訳ないし、この方法だと、高崎を手伝うまでに時間がかかってしまうので、しばらくはもどかしい思いをする日々が続いた。
 空いた時間はただ辛抱するだけではなく、海に対するトラウマを克服する必要があった。毎日のように高崎の旅館へ通って働くならば、この間のように、一度乗っただけで、くたびれていては話にならない。だから、フェリーに乗る訓練を繰り返した。
 最初の内は吐き気を催し、トイレへ駆けこむ事もあったのだが、しばらくくりかえしていると、フェリー移動の苦痛は和らいできた。今では、気楽に錦江湾を眺められるし、問題なく仕事ができるまで、身体を慣らす事もできている。
 このようにして、できる事は俺なりに全てやったつもりだった。
 余計なお世話かもしれないとか、そんな事はもう気にしない。二度と同じ後悔はしない。
 旅館で働く時間が確保できて、トラウマの克服も順調に進み、いよいよ準備は整ったように思っていた頃。大学の講義を終えてから、数週間ぶりにワンゲル部の部室へ向かう事にした。
 俺は野村を酷く傷つけていた事を後悔し、今でもそれが強く心に残っていて。少しでも彼女の為にできる事があればと思っていた。果たして、俺にできる事は何があるのか、考え続けた結果。高崎にしたのと同じように、謝罪して、やりたい事をやると伝えたくなった。野村とアウトドアを楽しみたいと、彼女の前で誓いたかったのだ。野村の感情は正直、理解できていない部分が多く。これが正しい事か分からないが、今の俺はそうしたかった。
 大学の中庭を歩き、サークル棟が見えてくると、少し緊張してしまう。覚悟が揺らぎそうになるのを堪え、小さな不安と希望を抱えながら部室へ向かった。
 間もなく到着した部室の前には高崎が立っていた。
 彼女は俺の姿を確認すると、いつもの無表情で小さく会釈をした。
「来てたのか」
「うん」
「部室に来るのは久しぶりだったんだけど、高崎も久しぶりなんじゃないか」
「久しぶりだよ。実は、ワンゲル部の活動に参加できるようになって。それを話そうと思って、きたところなんだ」
「参加できるようになった?」
 まさか、旅館の客が少なくなったとでもいうのだろうか。
「最近、SNSを見てる?」
「SNSはしばらく見てないな」
 失敗した事もあったのでしばらく触っていなかった。
「隼人君が桜島に来た次の日ぐらいかな。野村さんから連絡がきて、実家の旅館で仕事を手伝いたいって、言われたんだ」
「それって、野村も旅館で働くつもりなのか?」
「いや、少し違って。野村さんが旅館の仕事を手伝う姿を撮影して、それをSNSに投稿して、旅館で働く魅力をたくさんの人達に伝えたいって事だった。そうする事で、旅館の従業員を募集する宣伝になるんじゃないかって、提案してくれたんだよ」
「なるほど、そういう事ができるのか」
「今時は、当たり前のやり方みたいだけど。私達は思いつかなかった。それで、実際にやってみた結果、SNSの宣伝効果は大きくて。野村さんが懸命に働く姿は凄く注目されたみたいで。旅館に問い合わせが何件か来て。すぐに新しい従業員が来てくれて、もうすぐ研修が終わるから、私の仕事がだいぶ少なくなってきた」
 驚きである。野村は知らないところで行動して、俺より先に高崎を救っていた。
「じゃあ、仕事はないのか」
「うん。これから、私の仕事はどんどん減っていくし、隼人君の手伝いは、もう必要なくなりそうだ」
「ああ、そうか。そうだよな」
 このような形で、問題が解決してしまうとは、完全に想定外だった。これまで保ち続けていた緊張の糸が突然切れたようで、全身が脱力し、腰が抜けそうだった。
「従業員は増えたけど、仕事がどうなるかは分からなかったから。連絡が遅くなって、ごめんなさい。隼人君の手伝いが必要がなくなってしまって、いろいろ用意とかしてくれただろうから。それに関しても、申し訳ないと思う」
「いや、そんな事は気にしなくていい」
 俺が言うと、高崎は改めて頭を下げた。
「野村さんはSNSへの投稿をする事で、私に償いをしたいと言っていた。私は何も恨んではいなかったけど、それで野村さんの気持ちが落ち着くなら良いと思って、投稿をお願いしたんだ。これまでは一家総出で従業員を探してきたけど、上手くいかなかったのに。野村さんが宣伝すると、すぐに就職を希望してくれる人が来てくれた。旅館の宣伝も続けてくれて、相変わらずお客さんも多くて連日大盛況で、本当に助かってる。野村さんは本当にSNSの才能を持っているんだと思い知らされたよ」
「そうか。野村は凄いな。俺とはまるで違う。結局俺は何もできなかった」
「何もできなかった事なんてないよ。私は隼人君にも助けられた」
 高崎は微笑む。しかし、俺が何を助けたというのか。全く分からなかった。
 それより。俺が何日も時間をかけて準備をしている中、野村は行動して、既に高崎を助けていた。高崎は助けられたというが、能力のない自分が情けない。
 だが、後悔ばかりしてはいられない。
 野村と話したい事がもう一つ増えた。だから、早く野村に会いにいかなければならない。
「野村は、部室に来ているのか」
「さっきまでは部室に居たけど、どこかの講義室に忘れ物をしていたとかで。それを取りに行って、そのまま帰るって言ってたよ」
「そうか。分かった」
 まだ近くにいるかもしれない。すぐに追いかけて、話をしたい。
「あのさ。俺はもう少しの間、バイトが忙しいんだ。だから。落ち着いたら、たくさんアウトドアをしよう。アウトドアをする事が俺の目標だった。目標が叶うのはまだ先になると思っていたけど。野村のおかげで、もうすぐアウトドアができそうで、本当に良かったと思ってる。それで、夏と秋と難しい時期が続いたけど、冬こそ。もし、また何かがあって冬が難しいなら、次の春だ。必ず、アウトドアをやろう」
「うん。楽しみにしとく」
 高崎は再び小さく笑った。その表情を見た時、まだ、アウトドアをやっていないのに。念願が叶って、心が満たされたような気がした。
 そのまま、高崎に別れを告げて、野村の居場所を確認する為、メッセージを送った。返事を待ちつつ、野村の自宅に向けてクロスバイクを走らせる。
 道中で、野村に付き纏う不審者の存在を思い出した。あの男は逮捕されたのだろうか。現在まで、そのような情報は入ってきていないので、もし野村が一人で帰っているのなら不審者に襲われる危険があるのではないかと不安になった。
 その直後に野村から返事はすぐに届き、一先ず安心する。
 想定していた通り野村は家へ帰る途中だったようで、近くのコンビニ前で待っていてもらう事になった。
 俺は野村と会って話したい気持ちから恥ずかしげもなく、全力でペダルを漕いだ。それでも速度が足りない気がして、サドルから腰を浮かせて、アスリートさながらに立ち漕ぎをして街中を駆け抜ける。額や背中から汗が流れるのを感じるが、構わずに走り続け、あっという間に約束のコンビニへ到着した。
 コンビニ前に立つ野村は、汗を流しながらクロスバイクに跨る俺の姿に心底驚いている様子だった。
「これ、いいだろ」
「いいね。凄い自転車だ。クロスバイクだったっけ」
「ああ、前に説明したのを覚えててくれたのか。何だか、嬉しいぜ」
「覚えてたし。一瞬、隼人君だと気づかなかった。それ、どうしたの?」
「これまでバイトを増やして、結構な時間、働いてきて。そのせいでみんなに迷惑をかけたりしたけど。働いた分だけ給料は増えたからさ。結構、お金が貯まってて。それなら、欲しいものを手に入れるべきだと思って、クロスバイクを買ったんだ」
「そっか。頑張った甲斐があったね。それで、買ってみた感想は、どう?」
「サイクリングがこんなに楽しいとは思わなかった。もっと早く始めれば良かったと後悔してる位だ。でも、後悔していたって仕方がないから、楽しんでいきたい。こんな風に前向きな考えを持てるようになったのは、野村がやりたい事をやれと言ってくれたおかげだよ」
「私のおかげってことは、ないと思うけど」
「あるさ。何の事か分からないかもしれないけど、それがきっかけで俺はもう一度、辛い状況を打破する事が出来たんだ。野村の言う通り、やりたい事を我慢するのは俺らしくなかったよ。だから、これからはアウトドアに専念する。それを証明するためにもクロスバイクを買ったんだ。そして、それを伝えたくて、今日は会いに来たんだ。それで、これからは一緒にアウトドアを楽しんでくれないか?」
「うん。クロスバイク、見られて良かった。アウトドアに、誘ってくれるのも、嬉しい」
 野村は目を輝かせた。彼女のこんな姿を見るのも久しぶりだった。
「良かった。そう言ってくれると、俺も嬉しいよ」
 二人の間で生まれた喜びを分かち合うように、お互い頷き合う。
「クロスバイクに乗って、どこかに行ってみた?」
「基本的には近場を走っているだけど、手に入れた日はフェリーに乗って桜島まで行ってきたぜ」
「え、フェリーに乗れたんだ」
「かなり苦労したけどな」
「それで、高崎さんの所に行ってきたの?」
「ああ、まあ、そうだな」
 何となく言い難く感じたが、正直に伝えると、途端に野村の瞳から輝きが失われた。
「やっぱり。そうだよね」
 溜息をつきながら喋っているような、か細い声で言ってから野村は俯いてしまう。 
「どうして、そんな感じなの」
 そんな感じ、とは何だろうか。考えを巡らせて、彼女の言葉が指すものを探した。
「あれだけ色々あって。どうして隼人君は、何もなかったみたいに振舞えるの。それは隼人君なりの気遣いなのかもしれないけど、なかったことにするなんて、私にはできない」
 そう言うと、野村は俺に背を向けて、足早に駆けていく。
 逃げるように立ち去る野村を追いかけていいのか、一瞬、躊躇した。
 だが、それでは駄目だ。野村との関係を繋ぎ直す、その為に行動するのだと覚悟を決めたじゃないか。何も迷う事はないのだと自分に言い聞かせて、足を踏み出す。自転車に跨る時間すら勿体ないように思えて、自分の足で必死に走り出して、野村を追いかける。
 ここまで真剣に走った事なんて、生まれて初めてではないだろうか。だから、素人丸出しの不格好で慣れないフォームで走り続けた。
 人の視線も気にせず走り続け、人気のない路地へ入ると、野村の背中が近づいてきて、彼女へ向けて手を伸ばす。その時、突然、道の脇から現れた誰かが野村へ手を伸ばし、そのまま手首を掴み、自らの身体に引き寄せた。
「なんだ」
 思わず声が漏れて、野村も驚いて声を挙げる。
 野村の腕を掴んだのは、以前に遭遇した不審者だった。
「また、君か」
 険しい顔を見せる不審者を前にして、息が詰まり言葉が出ない。
「君達は、また二人揃って。結局、付き合ってるのかな。ノムさん、教えてくれない?」
 彼は睨みつけてくるような表情から転じて、笑いながら問いかけてくる。その不気味さに一瞬たじろいでしまう。
 これ以上、俺達の邪魔をするものは何だろうと許せなかい。何だろうと、立ち向かい、取り払ってやる。
 野村の怯える顔を見て、恐怖は霧となって消えて、腹の底から力が漲ってくる。
 春に天文館で窃盗犯と遭遇した時は、高崎に任せていただけで全く身体が動かなかった。だけど今は違う。自然と身体が動く。
 不審者の腕を掴み、野村から手を引き剝がした。彼は腹立たしそうに歯を食いしばっているが臆さない。
 「力を貸してください」と桜島に念じてから、窃盗犯の元に颯爽と駆け寄り、華麗に投げ飛ばした高崎の姿を思い出す。
 やり方は俺にだって分からない。だから見様見真似でやるしかなかった。
 体幹を後方へ捻り、不審者の腕を自身の肩に掛けると、右足を踏み出し、そのまま体幹を前傾させる。不審者の身体が浮いた感覚がして、そのまま腕を振り下ろすと、不審者を道路沿いのコンクリート塀に投げ飛ばす事ができた。
 不審者の身体を地面に叩きつけるつもりだったので、想定とは違ったが、それでも威力は充分だった。身体を起こそうと悶えているのか、不審者は小刻みに震えながらうずくまっている。一方、野村は腰が抜けたみたいに地面にしゃがみ込んで、こちらの一部始終を眺めていた。
 俺は直ちにスマホを取り出して、警察へ通報した。
 警察が到着するまでの間、不審者が動き出して再び襲われてはいけないので、周囲に助けを求めて、駆けつけてくれた人達と協力して不審者を取り押さえた。
 思いの外、不審者は抵抗する事なく、しばらくして到着した警察官達に連行される際にも暴れるような事はなかった。だが、不審者は去り際に、微笑みながらこちらを凝視してきた。その姿は何とも狂気じみていて、鳥肌が立った。このような人間をずっと放置してきたことを恐ろしく思いつつ、その脅威を取り払う事ができて、安心する。
「大丈夫か?」
 事情聴取を終えた後、体育座りで腰かけたままの野村に声を掛ける。
「うん。怖かったけど、大丈夫」
 野村は顔を挙げる。
 俺は手を差し伸べるが、彼女は目を反らし、それに応じない。
 その反応に少し気まずくなったが、何か話すべきだと思った。
「春頃に、天文館で強盗と出くわした経験があってさ。その時は高崎が強盗を撃退してさ。その活躍をみて、もしも同じような状況に再び遭遇した時は、俺もやらなきゃと思っていたんだ」
「助けてもらえたのは、ありがたいけど、高崎さんの話は聞きたくない」
「それは、そうだな。申し訳ない。でも俺は高崎を尊敬しているから、つい、どうしても、高崎の話をしてしまうんだ。だけどさ、今は野村の事だって、高崎と同じくらい尊敬しているんだ。俺は、それを伝えたかったんだよ」
「何で、私の事を、尊敬するの」
 野村は首を傾げる。
「高崎の実家に行って、旅館の従業員を募集する手伝いをしたんだろ。実際に働いて、旅館で働く魅力をSNSで発信したって、話を聞いた。おかげで従業員は増えて、人手不足が解消されたみたいじゃないか。それで高崎の負担が減って、ワンゲル部の活動に参加できるようになったんだよ。本当に、凄い事だと思った。俺も何とかしようとしていたけど、そんな方法は思いつかなかったし。結局、何もできなかった。だから野村を尊敬してるんだよ。それで、改めて言うけど、また、一緒にアウトドアをやってくれないか」
「ありがとう。そう言ってもらえるのは、嬉しい」
 照れているのか、野村は俯きながら呟いた。
「だけど。何だか、複雑だ。私を高崎さんと同じくらい尊敬してくれるのは嬉しい。でも、本当は高崎さんの為に行動した訳じゃなくて。私のせいで、隼人君がアウトドアを我慢する姿を見ていたくなかったし、隼人君と会う機会が減ってしまうのが、嫌だったからなんだ。あとは、私は高崎さんを陥れるような事をして、そんな最低な人間のままで居たくなかったっていうのもある。だから、旅館の仕事を手伝って、宣伝したのは困っている高崎さんを助けたいとか、そんな清く正しい気持ちではないんだ。それに、こんな状況でも、高崎さんへの嫉妬心が生まれてる。私はその程度の人間だから、尊敬されていいとは、思えない」
 気持ちの整理ができていないのだろう、野村の言葉が止まらない。
「それに、尊敬されているだけじゃ、駄目だ。だって、私は隼人君が好きで、もっと、親密になっていきたいと思ってるから、駄目なんだ。でも、隼人君にその気持ちがない事も分かってる。だけど、それでも、諦めたくない。隼人君の言う通り、SNSを使うのは、承認欲求が強い人ばかりで、私もそんな人間で。だから、諦めたくない。諦めずに、隼人君が私を好きになるように、努力したい。アウトドアをもっとがんばって、SNSを成長させて、自分を磨いていく。こんな気持ちを抱えたままの私でも一緒にアウトドアをしてくれるの?」
 野村は再び俺の目を見つめてきた。
 答えは決まっている。
「当たり前だろ。野村と今までみたいにアウトドアが楽しめるなら、それが一番だ」
「ありがとう。何というか、隼人君らしくて、嬉しい。でも、やっぱり、高崎さんを先に誘っているよね」
「ああ。実は、そうなんだよ。旅館の仕事が落ち着いたらアウトドアをしようと約束してきた」
 俺が答えると、「そっか」と野村は呟く。
「だけど。それは偶然、高崎と会ったから先に誘っただけだ。俺は野村とワンゲル部のみんなでアウトドアをやりたい。一週間キャンプはまだ難しいけど、皆でアウトドアをしたい。だから、やろうぜ」
「うん。分かった」
 野村は俺の頼みを受け入れてくれた。再び、野村に手を差し伸べるが、今回も手を取ってもらえなかった。
「でも、私は。本当に嫌だったんだよ」
「え」
「私が初めてワンゲル部を見学させてもらった時、みんなで買い物に行ったの、覚えてる?」
「ああ、アウトドア用品を買いに言った時だな」
「そう、そこで。好きな事を好きだと情熱的に語る隼人君の姿を見て、素敵な人だと思った。やりたい事は最後までやり通すって言った隼人君の姿に私は感動した。だから、私はSNSを再開して、アウトドアを始める事ができた。それなのに隼人君はやりたい事をやめてしまった。道しるべにしていた光を失ったみたいで、私はどうすればいいんだろうって思った。ずっと苦しくて、寂しかった。だから、もう、そんなことはしないで」
 弱々しい声だが、それでいて、強い想いを込めた言葉のように感じる。
「それは、本当にすまなかった。だから、これから先、自分を曲げない事を誓う。やりたい事を必ずやりきると、誓うよ」
 俺が宣言すると、野村はようやく俺の手を握ってくれた。
 立ち上がった野村と一緒に、帰り道を歩き始める。
「この間、高崎さんの旅館に行ったときもイルカは現れなかったんだ」
「イルカ?」
「錦江湾のイルカ。期待していたけど、見つけられなかった」
「ああ、夏季休暇の時に探したイルカか」
「うん。でも、一人でイルカを見てもしょうがないから、それはそれでよかったかもしれない。私は隼人君と一緒に見つけたいから」
「そうだな。俺もイルカを見たいよ」
 俺が答えると、野村は小さく笑った。
 これで高崎や野村の抱える不安や悩みが全て解消したとは思えないし、俺自身も課題を抱えたままだ。だけど、綻びは完全に直せなくてもいいと思う。再び関係を結ぶ事ができたから、今はそれでいいと思えた。


 明くる日。 
 大学の講義を終えてから、ワンゲル部の部室へ足を向けた。何か用事がある訳ではない。ただ、何か楽しい事でも起きればいいと、そんな気持ちで足を運ぶ。
 雲一つない秋晴れの空と同じように心は澄み渡っていて、肌に当たる冷たくなった風は非常に心地良い。まるでこの世の全てが味方になったような、至上の多幸感に包まれている。
 何の気兼ねなく、部室に訪れる。それだけの事がここまでの価値を持つとは思っていなかった。
 軽い足取りで中庭を歩いた。この向こうまで、あと何回繰り返すだろうか。どんな気持ちで歩いていけるだろうか。分かりようもないが、今は希望に満ちているようだ。
 柔らかい木漏れ日を浴びながら怠惰に過ごす学生たちは日に日に増えているようで、以前は嫌悪していたその姿も、今では好ましく思える。
 ワンゲル部の部室前では、ペール缶に腰かけた長瀬と満重が目の前に七輪を置いてサンマを焼いていた。
「何でサンマを焼いてるんだよ」
 俺が訊ねると、「秋はやっぱりサンマだろ」と長瀬は答え、うちわを仰ぎ、こちらに煙を飛ばしてきた。潮の香りが鼻腔の中に入り込んで、食欲をそそられる。
「確かに、その通りかもしれない」
 この日は昼食を碌に取っていなかったので、空腹感が強く、自然と手が伸びそうになった。
「勿論、七輪の使用は事務局に確認して許可を貰っているから問題ない。サンマ以外にも焼きたいものがあれば持ってこいよ」
「最高だな、七輪を買っといてよかった」
「ほんとにそうだ」
 俺も何か焼くものを用意しようか考えていると、隣に立つ直井が、「だけど、こんなところで焼く意味があるのか」と訊ねる。
「これも、アウトドアだから、活動の一環だ。まあ、どのみち意味なんて、別にいいじゃないか」
 長瀬が言った。
「そうだ。意味のない事を楽しむ事に意味がある。なんにでも意味を求めるのが現代人の悪いところだ」
 俺が言うと、直井が、「隼人も現代人だろ」と言葉を返した。
 そうやってくだらない話をしていると、野村と高崎が遅れてやってきた。
「何してるの」
 高崎は興味を示すわけではなく、ただ、不思議なものを見るような表情で問いかけてくる。
「見ての通り、サンマを焼いてるんだよ」
「それは分かるけど。何でわざわざ、こんなところで」
「こんなところでやるからいいんだよ」
「よく分からないけど、そうなんだ」
「何故分からないのか分からないんだが」
 嘆かわしく言うと、高崎はこちらをきつく睨みつけてきた。
 本当に高崎はアウトドアを愛しているのか、相変わらず掴めない奴である。
「高崎さんの言う通り。やっぱり、おかしいよな」
 直井は仲間を見つけたみたいに、機嫌よく言った。
 俺達がうだうだと言っている中、野村は真剣な眼差しで七輪をよく観察していて、相変わらず実直でひたむきな奴だと思った。
 これでようやく以前の日常に戻る事ができた。
 傍から見れば特別なものにはとても思えないであろうこの時間が、かけがえのないもので。小さく安堵し、心は喜悦に満たされた。
 振り返ってみれば、周囲の変化に流されてばかりで、何もできなかった。諦めてただ黙っている過ごす事にはとても耐えられなくて、何とかして流れに抗おうと、もがいてみたが、結局は一つも上手くいかなかった。それでも、望んでいた岸の上に辿りつけたのは偶然打ち上げられただけなのか、必死に手足をばたつかせたおかげなのか、未だによく分からない。
 こんな風に、環境の変化に左右されてばかりなのは、誰しも同じなのだろうか。これまでは変化を恐れていたが。こうして自分の望む事が出来るのなら、変化が起きるのは悪い事ではないと思えるようになった。
 だが、都合の良い事ばかりではなくて、まるで望み通りにならない場合もある。深い海の底に沈んだまま、絶望に打ちひしがれるような時だって来るかもしれない。でも今は余計な事は考えずに楽しんでいたかった。
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