第３話『ワガママ女ミク』前編
「さて、どうしたもんか」
今、ミクはテレビを見るでもなく、何かを食べるでもなく、ずっと外を眺めている。
あの日、ミクが涙を見せた日から数えて二日が経っている。
あの時のミクは確実に普通じゃなくて、慰める為にも俺はミクと一つの約束をした。
その後にミクが散らかした部屋の片付けを二人でしたわけで、それはそれはすごく大変な作業だった。
ミクにはコンセントの挿しなおしを命じ、俺はキッチンの掃除に取りかかっていたわけだが、その時にはすでにミクは笑顔のヤンチャガールに戻っていた。
しかしあんな状態でいるなんてどう考えても普通じゃなく、確実になにかしらの事がミクに起こったと見て間違いないだろう。
そんな疑問をミクに尋ねても、「もう大丈夫だ」という表情を見せるだけで答えてはくれなかった。
それ以上深く聞いたって答えてくれる様子はないし、ミクの傷をあえて掘り返す必要もない訳なので、俺はもう聞かないことにした。
ミクの触れられたくない部分に触れるなんて望まれていない事をするよりも、ミクを楽しませるという約束を果たす方がずっと建設的だからな。
片づけが終わった後に俺はミクと色々な対話をしてみた。
他愛もない事をただ尋ねていただけなので大した情報は手に入ら無かった。その中の話題でパソコンパーツによる強化は出来ないことを聞かされほんの少し俺は落ち込んだ。別に無駄足を踏んだ事に落ち込んだわけではなく、これでミクの声を取り戻す方法が無くなった気がしたからだ。
もしかしたら、パソコンのパーツ強化に関してあらかじめ聞いておかなかったのは、こんな気分になってしまうことを俺が恐れていたからかもしれない。もしそうならば結局俺はミクの為ではなく自分を守る為にミクの声を直したかったんだろう。
本当にそうなのかを自分ですらわからないことに少しだけ情けなく感じてしまい少し悩みはしたが、俺はすぐに考える事を止めた。ミクが不安な顔で俺を見ていたからだ。きっと俺は悩みだすと表情に出てしまうんだろう。
こうやってあーだこーだと一人で悩みミクを心配させるぐらいなら、俺はミクとの同居生活をより充実した物にしようと心に決めた。
その後も大した意味のない対話を続けていたわけだが、その中で一つだけ有益な情報を見つけることが出来た。
それは何かと言うとミクは字が読めるってことだ。
残念ながら字を書く事は出来ないそうだが、一方的に言葉を投げかける今の状態よりは確実にコミュニケーションが取りやすくなる。
そう考えた俺はすぐにコピー用紙を切り取り何枚かのカードを作ってミクに手渡してやった。
内容は「腹減った」とか「眠い」などのあまり役には立たない文字ばかりだったが、ジェスチャーのみの意思表示よりは何倍もわかりやすい事は確信していた。
その後は普通に飯を食い、風呂に入ってそのまま寝るという何の変哲もない日常だったわけだが、次の日の出来事が今の俺の頭を悩ませている。
次の日の朝、ミクに体を揺すられて目覚め、早速「腹減った」のカードを突きつけられた俺は渋々朝食を作ってやり、ミクとテレビを見ていた。
しかし、見ている番組は将棋。
将棋に興味のない俺にとってはお世辞にもあまり面白いとは思えないのだが、ミクはこれでもかという程真剣に見ていた。
テレビから視線を逸らす事無く、パンを食べ。コップの中身が空だということに、口へ運ぶまで気付かないほどの真剣さだ。
テレビならば何でも良いと思っていたが、きっとミクは将棋がお気に入りなのだろう。
他の番組ではここまで真剣には見ていなかったからな。
そこでふと思い出したのが運のつき。俺は将棋セットをもっている事を思い出してしまったのだ。
ここに引っ越す時の荷造りの際、使える物はなんでも持って行くという考えで、小さな頃に買ってもらった将棋セットやらトランプやらを箱の中に入れていたのだ。
ミクを楽しませる為にとクローゼットの中を漁ってみるといとも簡単に将棋セットは見つかった。
将棋セットを見せたときのミクの喜んだ顔といったら……。
その顔に流されて将棋カードまで作った俺を呪いたくなる。
んで早速将棋を始めたわけだが、結論から言うとミクは物凄く上手かった。
何局やったかはわからないが、すべて俺の負け。
ルールを知っていたことだけでも驚きだったが、天才的な上手さだった。
俺が下手ってのもあるかもしれないが、あそこまで美しい負け方はした事がない。
んでミク様は大層将棋をお気に召したらしく、俺は会話も休憩も無しに昼食と夕食の時も含めて夜までぶっ続けで将棋に付き合わされた。
俺が途中で休憩を入れようと勧めてもミクは「いやだ」のカードを俺に見せて首を振るだけ。
無理やり席を立とうとしても俺の袖を引っ張り座りなおさせて将棋のカードを突きつけるのだ。
あのままだったら恐らく徹夜の勢いだった。
楽しませると約束をしたとはいえ、まったく勝てる見込みのない将棋を延々とやり続けるのはさすがに物凄く苦痛であり、俺は必死に休憩する方法を考えていた。
ふと俺は良い方法を思いついた。思いついてすぐに俺はミクに問う。
「ミクって体重増えないのか？」
その言葉を聞いたミクは三秒ほど唖然とした表情をした後、自分の腹を摘み、一瞬の沈黙の後ツインテールが円を描くほどに思い切り顔を左右へ振った。
ツインテールの往復ビンタが俺の顔面を強襲して来たが、この反応は完全に予想通りだった。
大量の食べ物を腹に詰め込み続けているにも関わらずトイレに行くわけでもないミクの体重はどうなってるのかという疑問は少しだけあったが、俺の目的はその答えを知る事じゃなかった。
「増えてないって事か？ んじゃあミク。体重測ってみるか」
不敵な笑みをこぼしながら言う俺を、ミクは恐怖の眼差しで見ていた。
「いやか？」
ミクは必死で頷く。
「それじゃあ今日は止めにさせてくれないかな？ カナ？」
これにもミクは必死で頷く。
なんていう外道な方法で将棋を中断させることに成功した俺は、ミクにさっさと寝るよう促して、風呂に入って眠った。
そして今日の朝。
いつものようにミクに起こされ朝食を作ったのだが、ミクはいつもと違った。
なんとトーストを二枚しか食べなかったのだ。
さらにはテレビを見る事もせず、朝食を食べ終わった後はベランダから外を眺め続けているのだ。
昨日の俺の体重計作戦はミクに深い傷を負わせてしまったようだ。
「昨日のは冗談だよ！ ミクの体重は増えないって、きっと」
俺がこんな言葉で食べる事を勧めてもミクはただゆっくりと首を振るだけなのである。
しかしテレビを見る事を勧めると、机に置いた将棋カードを指差す余裕がある事から見て、特別落ち込んでるって訳ではないようだった。
そして今俺はこの状況をどう打開するかで悩んでいるのである。
楽しませる約束を反故にする気はないが、さすがに将棋は当分やりたくはない。
「トランプでもやるか？」
ミクは非情な動きで将棋カードを指差す。
「…………」
ちくしょう。やな奴。
「なんで外を見てるんだ？」
俺はミクの傍に行きながらそう尋ねた。
ミクはゆっくりと外を指差す。
走り回る子供や、荷物を持って歩く主婦。
ミクはそのすべてを楽しそうに眺めて指で差し示している。
「もしかして外に出たいのか？」
この問いを聞いたミクは俺の方を向き、大きく頷いた。
ミクが外に出たい……。
叶えてやりたいが、いかんせんミクの服装は派手だ。
今の流行りのキャラクターだけあり若い人間に見つかれば大変な騒ぎになるかもしれない。
そんな事はミクだってわかっているだろうが、それでもミクは外を歩く人々を羨ましそうに眺めている。
「…………」
しかたがない。外へ出してやろう。
楽しませると約束した俺は将棋をするのを断ってるんだ。外出したら楽しんでくれるのならば、少しぐらい無理をしたって願いを叶えてやるべきだろう。
そう決めた俺は家を出る準備をする。
しかし家を出るのは俺だけだ。
「ミクほんのちょっとだけ出掛けてくるから」
ミクは窓の外を眺めたまま、力なく俺に手を振った。
三十分後、俺は車に乗って、家の前に帰ってきた。
この車はレンタカーだ。
車さえあればある程度ミクを隠しながら外出する事が可能だ。そう考えた俺は速やかにレンタカーショップへ行き一番安い車を借りてきたのだ。
ただ外出する為だけにこの出費はちょっぴり痛いが、まあ仕方ないだろう。
家の前に車を止め家に入ると、ミクはまだ窓の外を眺めていた。
「おいミク！ 外出するぞ」
この言葉を聞いたミクはキョトンとした表情をしている。
どうやら信じていないようだ。
「ほんとだって。 車まで借りてきたんだぜ」
そう言いながら俺が車の鍵を見せると、ミクはみるみる笑顔になっていった。
ミクは有頂天になりすでにスキップで玄関に向かっている。
「ちょっとまて、ミク」
ミクは立ち止まり、鬱陶しそうな顔でこちらへ振り返る。
そんな目で見るなよ……。いくらなんでもそのままの格好で出掛けさせるわけが無いだろう。
俺はクローゼットからコートとニット帽を取り出し、ミクを居間へと呼び戻す。
「これを着るんだ」
そう言って俺がコートを差し出すとミクはあからさまに嫌な顔をした。
が、外に出る為にはこれを着ないといけない訳なので、物凄く嫌そうな顔はしていたが、渋々コートは着てくれた。
ただ問題はニット帽だった。
ミクは自分でかぶろうとしていたが、結局ツインテールの量が帽子の容量を遥かに超えている為一人でかぶる事が出来ていない。
俺も手伝って無理やり詰め込んでみたのだが……。
「これは……」
あまりにもツインテールの量が多いせいか黒のニット帽が膨らみプチアフロのようになっている……。
ミクの表情もコートを着るときに見せた嫌な顔とは比べ物にならないほど不機嫌な顔をしている。
「し、しかたないって！ これで我慢してくれ」
その言葉を聞いたミクはまったく表情を変えずにこちらを一瞥した後、玄関に向かって歩き出したのだが、ミクの足取りはなぜかとぼついている。
両手を広げてバランスを取るようにゆっくりと歩いているようだ。例えて言うならば廊下で綱がない綱渡りをやってるって感じだ。
「なにしてんの？」
俺の言葉を聞いたミクは、またしても不機嫌な顔でこちらを一睨みした後、帽子を物凄い勢いで取るとともにベランダの方へと思いっきり投げつけた。
そのままミクは何事もなかったかの如く、玄関に向かって普通に歩いている。
「…………もしかして、帽子のせいで真っ直ぐ歩けなかったのか？」
すでに玄関のドアノブに手を掛けていたミクは、不機嫌な表情で俺を思い切り睨んだ。
おいおい図星かよ。お前のツインテールはゴキブリの触角か？
いやそれは失礼だな。きっと男のキン○マが無くなると真っ直ぐ歩けなくなるのと似たような事なんだろう。
「って、おい！ ちょっと待てって。勝手に外に出るな」
一人でさっさと外に出ようとするミクを制止し、俺はミクと一緒に車に乗り込んだ。
「なあ、ミク。もうちょっとだけ目立たないように見れないか？」
車に乗ってから数十分が経っているが、ミクはその間ずっと車の外を眺めている。
俺が声を掛ければ、百点満点の笑顔のままでこちらに振り向くが、またすぐにその表情のまま元の体勢に戻る。
ミクがもしもイヌだったら今頃きっとミクの尻尾で簡易扇風機ができてるな。
そのせいもあるのか、さっきから信号で止まるたびに歩行者がこちらを見ている気がするが、まあ気のせいと言う事にしておこう。こんなにミクが楽しんでいるんだから無理やり止めさせるのも可愛そうだ。
今二人で向かっているのは家から離れた場所にある海寄りの町。
その町にある大型スーパーが目的地だ。
俺の家は山側にあるからその町まではなかなか遠い。
だがその町は高齢化が進んでいて、若者なんて殆どいない。さらにはこんな時間なんだからきっとミクの正体に気がつく人など皆無だろう。
外で大っぴらに遊ぶ事は出来ないんだから、スーパーで好きな物を買ってやり好きな物を食わせてやろう。俺はそう考えたのだ。
「ミク。今から行くところでの約束をしておこう」
ミクはこちらを向き、コクリと頷く。
「まず、俺の傍から離れちゃダメ」
少し嫌そうな顔をしたがミクは頷く。
「……あと食べ物がいっぱいあるけど勝手に食べちゃダメ」
これには真面目な顔で頷いた。
「守れるな？」
ミクは満面の笑みで右手親指を立ててウィンクした。
まぁ、わかってくれただろう。
そうこうしている間に俺の運転する車はスーパーへ到着した。
久々の運転だったので少し駐車に手間取りながらも車を駐車場へ止めた。
車の中から外を眺めると幸い客足は少ないようだ。
「よし、行くか」
その言葉を聞いたミクは意気揚々と、笑顔で親指を立ててウィンクの一連の動作で返答した。
車から降りてミクが勢いよく扉を閉めた事を確認した俺は、車の鍵を掛けて歩き出す。
ミクがミクだとばれないか不安だ……。
「わかってるなミク。俺の傍から離れちゃダメだぞ」
俺はスーパーの入り口方面に歩きながらミクに念を押す。
辺りを見回しているが人はほとんどいないようだ。
「食べ物を勝手に食べちゃダメだぞ」
ミクの返答を確認する為、俺は後ろに振り向く。
が、そこにはなんとミクの姿が無かった。
なんてこった。
さっそく約束を破りやがった……。
どこだどこだどこだ。
頭が混乱してきたぞ。一体どこにいるんだ……。
もしもミクの正体を知ってる人間に見つかってしまったら、まずい事になるのは間違いない。
混乱している頭を整理しながら来た道を戻る。
いない。いない。いない。
「いた……」
ミクは車の傍で俺に背を向けて立っていた。
「なにしてんだよ……」
俺の声に気付いたミクはゆっくりこちらへ振り向く。
だがなんとその顔は半泣き状態。
なんでそんな顔をしているのかはわからないが俺の方が泣きたい気分だよ……。
ミクはこっちを見ながら弱々しい動きで車をそっと指差す。
「…………」
あまりにもアホくさい状態に言葉を失ってしまった。
ミクのツインテールの片方が車のドアに挟まっている……。
「大丈夫か……？」
ミクはゆっくりと首を左右に振り、もう一度車を指差す。
すこし面白いが、このまま放っておいてもミクのトラウマになるだけなので、俺は笑いを堪えて速やかに車の鍵を開けてやる。
きっと周りの景色やらを見ていてツインテールが車内に残っていた事に気付かなかったんだろう。
ミクは悲しそうな顔をしながら挟まっていた髪を触っている。
同情はするが残念ながら俺には何もしてやれないな。
しかし、あれだけ思い切り挟まっていたにも関わらず、癖の一つもついていないとは奴の髪はすさまじい剛性だな。
「もう大丈夫か？」
ミクは悲しそうな表情のまま頷いた。
「んじゃあ行くぞ」
そう言って俺はミクの手を取りスーパーの入り口へと歩き出す。
手を掴んでおけば絶対に見失うことはないからな。もうあんな焦燥感に襲われるのはコリゴリだ。
俺の足取りが少し速いせいか、ミクは俺に引っ張られるような形でついて来ている。
外にミクを晒すのは出来る限り抑えたい気持ちがあるからそんな事はお構いなしだ。
「よし、この扉に入ったら中はスーパーだ。約束をおさらい……」
おいおい。またなにかあるのか……。
ミクは俯いて突っ立っている。
「なんだよ……。 なんかあったのか？」
ミクがゆっくりとあげた顔の色はなぜか真っ赤だった。
悲しそうな表情じゃないけど、いったいなんなんだ？
「どうしたー？」
そう言いながら茶化すようにミクの顔の前で手を振った途端ミクの表情が怒りに変わった。
はっきりとわかるぞ。これは怒っている……。
「な、なんだよ」
俺が少し驚き一歩引いた途端ミクはプイっと顔をそっぽ向けそそくさとスーパーの中に入って行ってしまった。
「…………」
なんだったんだ、一体。
約束をおさらいする前に入っていったし……。
「って、ちょ！ まて！ ミク！ 勝手に入るなって！」
第３話完