ブッダに至るナンパ
どのような出会いにも縁が存在し、それらには強い縁か弱い縁かの違いしかないことに哲人は気づいた。つまりどこかでナンパしようとも、出会い系サイトで出会おうともそれらは紛れもない縁なのである。そしてそれが強いか弱いかは互いの主観でしかない。つまり初見の相手だろうともそれが強い縁だと思えばそれはそうなるのである。
哲人は大学を自主休学しながら東洋哲学を独学で勉強していた。彼は以前から因果応報や因縁というものに気をとめていた。そしてだんだんとそれが心の動きに依存しているものだと解った。その心の動きによって得られるものが縁であり、その他のものは空である。彼は出家した僧のような気分で外に出た。
もちろん彼が始めたのはナンパであった。彼が動きを始めることによって得られる出会いは倍以上になる。彼は街に出てはさまざまな女に声をかけた。しかし街を歩く人々は儀礼的無関心に囚われていて彼に気を留めようともしないのが大半であった。しかし中には自らが得た哲学によってそのような悪習に惑わされない人も居た。彼はそれを繰り返す度にうまくそのような人を選別する方法は無いだろうかと考えた。
彼はその答えを東洋哲学に求めた。つまりは自己を改善することによってその方法を得ようとした。彼は両耳にピアッシングを施すことによって自分の哲学を外界に示そうとした。そしてそれは更なる効果を得た。
今や彼のナンパは「フッサールの現象学について話し合わない?」とでも声をかければ相手から「何それ?映画かなにか?」と返答がある。それを得られればお手のもので「何か見たい映画ある?」と言って相手に追随する。そうすれば後は相手の指定した映画を「それ俺も見たかったんだよねー」とか言えば簡単に成立した。どうせ自分の嗜好など相手には理解できるものではないし、誰かにそれは嘘だと咎められようともそれを実証する手立ては無いのだから誰も彼を止めることはできない。
そしてその映画は最悪だった。そして更に最悪だったのが「映画だけ」と言って本当に映画だけ見て去って行ったその女だった。彼はあと少しでゴールが決められるサッカーのゲームで、いきなりゴールが消滅したような印象を受けた。
彼は今日のそれまでの全てが台無しになったと思った。そしてそれを自分の人生に照らし合わせてみた。もしあと少しで悟りに到達できるという目前で死んでしまったらどうなるのだろうかと。そうすると『悟り』などというものを設ける仏教がとてもバカらしく思えた。結局は現在の自己を肯定すればいい、自己に原因を求めるなどくだらないまねごとだと思った。そして彼は東洋哲学を投げ出した。