『世界観の可能性』
『世界観の可能性』
『あっ、りょーねえ、そらが赤いよー』
『え? 何言って――』
男の子がりょーねえと呼ばれた女の子に抱きかかえられたまま、空を指差す。俺も女の子も、その指につられ空を見て、息をのんだ。……赤い。雪を降らせるような分厚い灰色の雲があるはずなのに、空は赤く、そして明るかった。なんだ、なにかが起こってるのか? 親の二人も何が起こってるのかわからないようで、空を見上げたまま黙っている。俺も空を仰ぎながら、ふと気付いた。耳鳴りのような音が、次第に厚みを帯びて、確かな音として空から聞こえてきているのだ。
空、空から何かが来る。降ってくる。赤い。燃えてる。何かが頭の隅で引っ掛かっている。出てこないぞ、頭の中で使える爪楊枝が欲しい――そうだ、そうだよ、ここはまずい! 知識として記憶していた一つのことを思い出す。十五年前、災害、死者三千人……北海道旭川隕石。わからない、わからないけど、俺は今、それが落ちてくる所を見てるんだと思う。くそっ、今になって思い出すなんて! 天文部が聞いて呆れるよ!
早くみんなに逃げるよう伝えないと。
「おい、ここに居たら――」
そこで、気付く。これはただの映像なんだ。俺が叫んでも、向こうには聞こえない。ほら、親子は俺を見ていないじゃないか。……それがおかしいと思えるくらいにリアルすぎるからだろうな、俺は焦っていた。だってそうだろう、このままじゃ、俺はこの親子が死ぬところを見せられるかもしれないんだぞ? それは嫌だ。俺だけ目を背けて逃げるか? じゃあ何から逃げるんだよって話だ。俺自身は安全なのに。ダメだ、焦る。これは焦る。何も出来ないだけに困ってしまう。
『あなた、あれ』
『ああ、なんだろうな。花火……ではないだろうし。ううむ』
赤い空が轟音と共に迫る。どうしよう、どうしよう、どうしよう。俺はどうしたらいいんだろう。いや、どうしようもないだろ。そうだよ、なんで俺がこんなのを見なきゃいけないんだ。誰だよこんな悪趣味なことをしてる奴は。オッサンか? オッサンなのか? 紳士な格好してたくせにとんだ外道じゃねえか。
「おいオッサン! 聞こえてるんならこの映像を止めろよ! 捕まってやるからさ、こんなもん見せんなよ!」
俺の声は響かない。こんなに広々としているのに、密室で叫んでいるような感じ。なんだよこれ、ほんとやめてくれよ。変なところに連れてこられただけでもお腹いっぱいだってのに、こんなものまで見せようってのかよ。ほんと勘弁してよ。
拳を握り締めて、強く目を瞑る。いやだ、見たくない。人が死ぬのはいやなんだ。だってさ――。
『――あっ』
男の子の声が聞こえた。直後、轟音と風を切る音が止み、世界は爆発した。
衝撃は無い。無いよ。でも、燃える音、強い風の音、何かが壊れる音、色々な音が耳に飛び込んでくる。俺は遅れて、握っていた拳を解いて耳を塞ぐ。……しばらく経ち、目を開けた。
燃えてる。燃えてるね。いや、幸運にも人が燃えてるとかそんなショッキングなものは見えない。けど、ずっと先、爆風で倒壊した建物のさらに向こうのほうで、大きな火の手が上がっていた。そりゃそうだ、隕石が落ちてきたんだよ。大きさにして直径50m。地球が滅ぶほどの大きさじゃなくても、あれほど分厚かった雲は円形に切り取られ、星空を見せている。辺りは滅茶苦茶だ。車はひっくり返って、街路樹は軒並み同じ方向に倒れてて、あちこちにアスファルトの破片が転がっている。
ひどい、ひどすぎる。呆然と周りの光景を見ながら、俺はさっきまで目の前に立っていた親子を思い出す。そうだ、どこにいったんだよ。いや、グロテスクな状態を見るのは勘弁して欲しいけど、でも、無事なんだろうか。
周りを捜す。目を瞑ってから開くまでの間に何があったのか、まるで想像がつかないほどに景色は様変わりしている。……確かについさっきまで親子は俺の目の前で立ち尽くしていたはずなんだ。もし、爆風で飛ばされたんだとしたら。俺は遠くで燃える空から視線を放して、後ろを向く。……あ、いた。女の子が一人倒れてる。さっき見た服装だ、間違いない。恐かったけど俺は駆け寄り、顔色を伺う。よかった、死んではいないみたいだ。大きな怪我もしてないみたいだし、うん、よかった。……でも。
俺は女の子の周囲を見るが、他の三人の姿は無い。もっと遠くまで飛ばされたんだろうか。捜していると、意識が回復したのか女の子が上半身を起こしていた。
『おじさん? ……おばさん? それにこうちゃんも、どこ?』
きょろきょろと、首を動かし三人を捜す女の子。ダメだ、ここにはいない。そう教えてあげようにも、声は届かない。……俺がここに居る意味なんてないんだよな。そう、ないんだけど。なんで俺はここにいるんだろう。わからない、考えるだけ無駄な気がする。
立ち上がり、三人を捜し始める女の子。俺は黙って、その後についていく。ふらふらした足取りだ、支えてあげたいのに、ほんとくそたれだな。もしオッサンがこれを俺に見せてるんだとしたら、さすがに一発くらい殴らなきゃ気が済みそうにない。顔はダメだからな、腹だ。願わくばそれでリバースさせてやりたい。無理だろうけどね、オッサン腹筋ありそうだし。むしろ殴った俺のほうにダメージとかありえる。
しばらく歩いていると、建物が倒壊したんだろう、歩道の真ん中を大きな瓦礫が塞いでいた。その瓦礫の前に、見覚えのある男の子が立っている。……ああ、男の子も生きていたのか。じゃあ、親も生きてるだろ。生きてなきゃダメだ。
『こうちゃん? よかった、大丈夫?』
『うん』
『おじさんとおばさんは?』
そういえば、女の子がさっきからおじさんおばさんと言ってるけど、もしかして親じゃなかったんだろうか。親戚なのかな。
女の子の言葉を聞いた男の子は、黙って瓦礫を指差した。え、どういうこと? え? なんで瓦礫?
『その声は、涼子ちゃんかい?』
『おじさん!』
瓦礫の中から、男の声がした。女の子が反射的に瓦礫まで駆け寄る。俺も瓦礫まで近付いて、息をのんだ。瓦礫の隙間から、あれだ、あれだよ、血まみれの手が出てる。ちょっと下を見てみれば、着々と面積を広げている血溜まりが。……え、これはその、おじさんやおばさんの血じゃないよな? じゃなきゃ困るだろ。そうであってくれ。
『おじさん、今助けを呼んでくるから……』
『まあ待ちなさい。僕はもう、助からないと思うんだよ。血がね、押さえつけててもドバドバ出てしまうんだ。妻も、さっきから返事がないしね』
『そんなっ』
女の子の目から、涙がこぼれる。なんだよこのおじさんは。こんな時だってのに緊張感の無い喋りかたしやがって。ちょっと俺の声に似てる辺りが頭にくる。
俺は物をすり抜けることが出来るのを思い出して、本当に助からなさそうなのか確かめるべく、瓦礫の山に頭を突っ込んだ。
「……う、うあっ」
瞬間、尻餅。
俺は吐きそうになるのを我慢して、なんとか動悸を落ち着かせる。……下半身が千切れかけていた。ドバドバなんてもんじゃない、もう出るもん出尽くしたような。そもそも、抑えてるとか何とか言ったくせに、抑える手すら、無くて。なんだ、これ、助からないじゃん。
『それよりも、光史と一緒にここから逃げてくれないか。脆くなった建物がいつ崩れるかもわからない。こんな高い建物の傍に居たら、涼子ちゃんも埋まってしまうよ。埋まるのはあまり楽しくないと思うんだけどね、僕が思うに』
『でも、おじさんとおばさんが』
こうじ? こうじって、光史か? 俺? いや、ちょっと待てよ、別に同名なだけだと思う。自意識過剰すぎるだろ、俺。……いや、なら涼子っていうのも、そうなのか? いやいやいや、さすがにそれはない。ちょっと俺と声がよく似たおじさんが、息子に光史って名前をつけて、姪に涼子って女の子がいるだけさ。うん、それだけだ。
一人頷いていると、瓦礫からまた声がする。
『涼子ちゃん、デモもクーデターも無いんだよ!』
「ぶふうっ」
『…………ぶふーッ、げほおっ! これはまずいな。一度言ってみたかったから言ったけど、さすがに言うタイミングがまずかったかね。血がドバドバだ』
このおじさん、俺と同じ笑いのツボを持っているのか。こんな状況だってのに噴き出してしまった。というかおじさんまでそんな怪我してるのに噴くとか、馬鹿すぎるだろ。この俺に馬鹿だって思われるのは、相当な馬鹿なんだぞ。……ああ、馬鹿だ。馬鹿すぎる。
瓦礫の前で止まらない涙を流しながら膝を付く女の子。その膝までとっくに血溜まりは広がっていて。女の子が叫ぶ、動かせもしない瓦礫を叩きながら、おじさんに呼びかける。でも、おじさんが返事をすることはなかった。
しばらくして、女の子が立ち上がる。一瞬、瓦礫に視線を送り、俯く。そして顔を上げると、隣で呆然と瓦礫を眺める男の子の手を取り、二人は歩き始めた。……俺はそれを眺めているだけ。だって、ついて行ってもすることないだろ。おじさんとおばさんは死んだ。終わりなんだよ。