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第三話『プリズン・ブレイクォ!』

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第三話『プリズン・ブレイクォ!』


 走る。走る。走る。
「相羽君、ワタシを怒らせると、今、恐いですよ!」
「あわわわわ」
 なんだこりゃあああああ。頭がおかしくなりそうだ。だっていくら走っても景色が変わらないんだぜ? 無限ループってこわくね? 唯一距離感覚を保っているのは、オッサンと俺の距離だけ。後ろから恐い言葉が聞こえてくるが、さすがにそれ言われて止まる奴はいないと思うんだよね。
 で、走っているうちに気付いた。何故かはわからないけど、100mを11秒で走ると自身を謳っていたオッサンが徐々に遠くへ離れてゆく。やべえな、俺速い。ここにきてやっと、俺に隠された真の力が覚醒したのか。足がオッサンよりも速いだけってどんだけ地味な力だよ。そもそも力とかなんだよおっかねえ、ありえねえよ。――と、オッサンの姿が消えた。俺が振り向き、オッサンの姿を確認したところで、文字通り急に消えてしまった。え、待ってよ。確かに捕まるのは嫌だけどさ、追いかける側が消えるってどうなのよ。なんか不安になっちゃうじゃん。
 俺は立ち止まり、膝に手をつき心臓を落ち着かせながら、深呼吸。……よし、変なところに来てテンションが上がるのもわかるけど、俺よ、考えようじゃないか。ここがどこで、なんでここにいて、どうやったら戻れるかを。
 いや、もっと考えようぜ俺。わかるわけないよね。そもそもの原因がわからないんだから、傾向も対策も解決も出来るわけないよね。無駄なオリゴ糖を消費した気がするわ。
「おーい、オッサン、とりあえず帰り方を教えてよ」
 控えめな声でオッサンを呼ぶ。が、返事はない。なんだよそれ、オッサンが言うにこれは能力なんだろ。オッサンに頼るしかないってのに、なんで消えてんだよ。もう捕まってもいいから、さっさと出して欲しい。お腹空いた。カレーコロッケ食べたい。
 俺はその場に座り込む。……何の音もしない。人の姿なんてあるわけがない。あるのは極彩色の“背景”とでも言えばいいのかな、それがうねうねと蠢いているだけ。うねうね。うねうねうね。……目が痛くなった。なんて目に優しくない場所なんだ。色がうねうねしているだけ。それをずっと見続けられるほど俺は忍耐強くなかったので、正面から自分の足の間へ視線を移す。うねうねしていた。もうやだこの場所。
「む」
 やることがないので地面と思わしき場所でゴロゴロ転がっていたら、背景にちょっとした違和感が生まれた。なんて言えばいいんだ、背景が水だとしたら、それに波紋が広がっていくような。一つの波紋が360度を蹂躙し、点になる。そこでまた波紋が生まれ、点に。俺は立ち上がる。気付けば、いくつもの波紋が生まれ、波打っていた。なんだなんだ、何が始まるんだ。さっきまでの二次元的なうねうねとは違って、今度のは三次元うねうねか。次第にゃ四次元うねうねとかし始めるのか。やべえな、さすが異次元だ。目に優しくないね。
 波紋は大きな波となって、次第にその模様を激しくする。様々な色が飛び跳ね、飛び散り、集まり、交わる。そして、背景が変わった。変わった。
「変わったぜおい! なんだここ!」
 落ち着きのない背景を見続けた所為だろうね、吐きそうになるのを堪えながら、目の前に広がる“風景”を見渡してみる。そう、これは風景。ビルが建っていて、雪が降り積もり、人が歩いている。普通の町だね。……もしかして、戻ってきたのか?
 いやいやいや、待て待て。ここで戻ってきたと思うのはちょっとアホの子なんじゃないの。何故かと言えば、今はまだ雪の降る季節じゃない。寒くなってきたとは言え、さすがに雪は降らない。それに、ここ知らない場所だし。ひゅー、あぶない。危うくアホの子になるところだったぜ。俺は掻いてもいない額の汗を拭い、深呼吸。うん、ここはおかしいよね。
 さりげなくアスファルトに積もった雪を掴む。触れない。なるほど。
「あわわわわ」
 なんということだろう。人類はいつの間にか、カレードリアを食卓に並ばせるだけではなく、立体映像まで完成させていたのだ。こいつはやばいぜ……その内車が空を飛んじまうぞ……。
 おかしいと思ってたんだよね。雪が降るくらいなのに寒くないし、その雪を触っても冷たくない。実際触ろうと思って見れば、ただすり抜けていただけ。結論、これは立体映像なのだ。
「すげえ! これすげえ!」
 俺は走る。が、通行人は俺のことなんて見ない。すげえな、こんなにリアルなのも今の技術じゃ作れるのか。雪を踏んでも硬い感触しかないのはご愛嬌だな。この技術で超絶楽しいエンターテイメント映画を作ってほしいね。360度全てが映画、一度観るだけでは全てを観ることは出来ない。映画館の懐にも優しい、とても楽しそうな案だと思うんだけど、どうだろう。
「はあ」
 疲れたので立ち止まり、そのまま座り込む。……いやあ、さすがの俺でもこの状況じゃ楽しめないわ。だってここ、異次元なんだぜ。なんでかは知らないけど、どっかの景色が背景に映ってるだけ。状況としちゃあ、なんも変わってない。どうすんだよ。
 通行人に目を向ける。誰も雪の日に座り込む俺のことなんて見ようともしない。なんて孤独なんだ俺は。こっちへ歩いてくる親子だろう、四人の人達を見つめて、溜め息。雪が降るってことはクリスマスシーズンなんだろうな、子供がすげえ楽しそうだ。俺は楽しくねえよくそたれ。雪で滑って頭から血を出してしまえ。
『うあっ』
「えー」
 男の子が転んだ。雪で滑ったんだろう、頭から突っ込んだ。親っぽい大人が駆け寄る。……いや、明らかに俺の所為じゃないことはわかるんだけどさ、こう、なんて言うんだろう。すごく申し訳ない気持ちでいっぱいだ。暇なので観察してると、男の子にお姉ちゃんっぽい子が手を伸ばす。姉弟かあ。いいよね、俺も姉ちゃんが欲しい。今欲しい。なんだかんだで不安だから、今すぐにでも甘えたい。
『りょーねえー、だっこー』
『しょうがないなあ、こうちゃんったら』
 歳が離れてるんだろう、小さい弟を姉が抱きかかえる。……男の子の頭から血が出ていた。いや、全然大したことないってあれくらい。すぐ治るって。血もそんなに出てないし。大丈夫大丈夫。……うん、俺の所為じゃないけど、ごめん。声が届かないことをわかってるので、心の中で謝る。それにしてもよく出来たお姉ちゃんだ。こんなお姉ちゃんが欲しいよね。どうしようもない時に助けてくれるような。……まあ、母さんもそうと言えばそうなのかもしれないけど。でもなあ、あれだしなあ。
 子供を見て、二人の両親が微笑んでいる。外は寒そうなのに、なんて暖まる光景なんだろう。なんか元気でた。
「ほっ」
 勢いをつけて立ち上がり、家族の近くに駆け寄る。……なんだろ、む、ううん。この家族を見ていると、なんて言えばいいんだろ、既視感とでも言えばいいのかな。どこかで見たことがあるような。うむ、全然わからん。すげえ気のせいくさい。
 人の少ない町。車の通りも少なくて、やけに静かに感じる。背景が波打つこともなく、俺は親子について行きながら、町の様子を観察していた。と、そこに耳鳴りのような、この場に似つかわしくない音が響いてきた。なんだこの音、どっから聞こえるんだ。周りを見ると、目の前の親子も俺と同じようにきょろきょろと周りを見ている。なんだ、“こっち”の音かと思ったけど、“あっち”の音だったのか。じゃあ俺には関係ないな。
『あっ、りょーねえ、そらが赤いよー』
『え? 何言って――』
 男の子がりょーねえと呼ばれた女の子に抱きかかえられたまま、空を指差す。俺も女の子も、その指につられ空を見て、息をのんだ。……赤い。雪を降らせるような分厚い灰色の雲があるはずなのに、空は赤く、そして明るかった。なんだ、なにかが起こってるのか? 親の二人も何が起こってるのかわからないようで、空を見上げたまま黙っている。俺も空を仰ぎながら、ふと気付いた。耳鳴りのような音が、次第に厚みを帯びて、確かな音として空から聞こえてきているのだ。
 空、空から何かが来る。降ってくる。赤い。燃えてる。何かが頭の隅で引っ掛かっている。出てこないぞ、頭の中で使える爪楊枝が欲しい――そうだ、そうだよ、ここはまずい! 知識として記憶していた一つのことを思い出す。十五年前、災害、死者三千人……北海道旭川隕石。わからない、わからないけど、俺は今、それが落ちてくる所を見てるんだと思う。くそっ、今になって思い出すなんて! 天文部が聞いて呆れるよ!
 早くみんなに逃げるよう伝えないと。
「おい、ここに居たら――」
 そこで、気付く。これはただの映像なんだ。俺が叫んでも、向こうには聞こえない。ほら、親子は俺を見ていないじゃないか。……それがおかしいと思えるくらいにリアルすぎるからだろうな、俺は焦っていた。だってそうだろう、このままじゃ、俺はこの親子が死ぬところを見せられるかもしれないんだぞ? それは嫌だ。俺だけ目を背けて逃げるか? じゃあ何から逃げるんだよって話だ。俺自身は安全なのに。ダメだ、焦る。これは焦る。何も出来ないだけに困ってしまう。
『あなた、あれ』
『ああ、なんだろうな。花火……ではないだろうし。ううむ』
 赤い空が轟音と共に迫る。どうしよう、どうしよう、どうしよう。俺はどうしたらいいんだろう。いや、どうしようもないだろ。そうだよ、なんで俺がこんなのを見なきゃいけないんだ。誰だよこんな悪趣味なことをしてる奴は。オッサンか? オッサンなのか? 紳士な格好してたくせにとんだ外道じゃねえか。
「おいオッサン! 聞こえてるんならこの映像を止めろよ! 捕まってやるからさ、こんなもん見せんなよ!」
 俺の声は響かない。こんなに広々としているのに、密室で叫んでいるような感じ。なんだよこれ、ほんとやめてくれよ。変なところに連れてこられただけでもお腹いっぱいだってのに、こんなものまで見せようってのかよ。ほんと勘弁してよ。
 拳を握り締めて、強く目を瞑る。いやだ、見たくない。人が死ぬのはいやなんだ。だってさ――。
『――あっ』
 男の子の声が聞こえた。直後、轟音と風を切る音が止み、世界は爆発した。
 衝撃は無い。無いよ。でも、燃える音、強い風の音、何かが壊れる音、色々な音が耳に飛び込んでくる。俺は遅れて、握っていた拳を解いて耳を塞ぐ。……しばらく経ち、目を開けた。
 燃えてる。燃えてるね。いや、幸運にも人が燃えてるとかそんなショッキングなものは見えない。けど、ずっと先、爆風で倒壊した建物のさらに向こうのほうで、大きな火の手が上がっていた。そりゃそうだ、隕石が落ちてきたんだよ。大きさにして直径50m。地球が滅ぶほどの大きさじゃなくても、あれほど分厚かった雲は円形に切り取られ、星空を見せている。辺りは滅茶苦茶だ。車はひっくり返って、街路樹は軒並み同じ方向に倒れてて、あちこちにアスファルトの破片が転がっている。
 ひどい、ひどすぎる。呆然と周りの光景を見ながら、俺はさっきまで目の前に立っていた親子を思い出す。そうだ、どこにいったんだよ。いや、グロテスクな状態を見るのは勘弁して欲しいけど、でも、無事なんだろうか。
 周りを捜す。目を瞑ってから開くまでの間に何があったのか、まるで想像がつかないほどに景色は様変わりしている。……確かについさっきまで親子は俺の目の前で立ち尽くしていたはずなんだ。もし、爆風で飛ばされたんだとしたら。俺は遠くで燃える空から視線を放して、後ろを向く。……あ、いた。女の子が一人倒れてる。さっき見た服装だ、間違いない。恐かったけど俺は駆け寄り、顔色を伺う。よかった、死んではいないみたいだ。大きな怪我もしてないみたいだし、うん、よかった。……でも。
 俺は女の子の周囲を見るが、他の三人の姿は無い。もっと遠くまで飛ばされたんだろうか。捜していると、意識が回復したのか女の子が上半身を起こしていた。
『おじさん? ……おばさん? それにこうちゃんも、どこ?』
 きょろきょろと、首を動かし三人を捜す女の子。ダメだ、ここにはいない。そう教えてあげようにも、声は届かない。……俺がここに居る意味なんてないんだよな。そう、ないんだけど。なんで俺はここにいるんだろう。わからない、考えるだけ無駄な気がする。
 立ち上がり、三人を捜し始める女の子。俺は黙って、その後についていく。ふらふらした足取りだ、支えてあげたいのに、ほんとくそたれだな。もしオッサンがこれを俺に見せてるんだとしたら、さすがに一発くらい殴らなきゃ気が済みそうにない。顔はダメだからな、腹だ。願わくばそれでリバースさせてやりたい。無理だろうけどね、オッサン腹筋ありそうだし。むしろ殴った俺のほうにダメージとかありえる。
 しばらく歩いていると、建物が倒壊したんだろう、歩道の真ん中を大きな瓦礫が塞いでいた。その瓦礫の前に、見覚えのある男の子が立っている。……ああ、男の子も生きていたのか。じゃあ、親も生きてるだろ。生きてなきゃダメだ。
『こうちゃん? よかった、大丈夫?』
『うん』
『おじさんとおばさんは?』
 そういえば、女の子がさっきからおじさんおばさんと言ってるけど、もしかして親じゃなかったんだろうか。親戚なのかな。
 女の子の言葉を聞いた男の子は、黙って瓦礫を指差した。え、どういうこと? え? なんで瓦礫?
『その声は、涼子ちゃんかい?』
『おじさん!』
 瓦礫の中から、男の声がした。女の子が反射的に瓦礫まで駆け寄る。俺も瓦礫まで近付いて、息をのんだ。瓦礫の隙間から、あれだ、あれだよ、血まみれの手が出てる。ちょっと下を見てみれば、着々と面積を広げている血溜まりが。……え、これはその、おじさんやおばさんの血じゃないよな? じゃなきゃ困るだろ。そうであってくれ。
『おじさん、今助けを呼んでくるから……』
『まあ待ちなさい。僕はもう、助からないと思うんだよ。血がね、押さえつけててもドバドバ出てしまうんだ。妻も、さっきから返事がないしね』
『そんなっ』
 女の子の目から、涙がこぼれる。なんだよこのおじさんは。こんな時だってのに緊張感の無い喋りかたしやがって。ちょっと俺の声に似てる辺りが頭にくる。
 俺は物をすり抜けることが出来るのを思い出して、本当に助からなさそうなのか確かめるべく、瓦礫の山に頭を突っ込んだ。
「……う、うあっ」
 瞬間、尻餅。
 俺は吐きそうになるのを我慢して、なんとか動悸を落ち着かせる。……下半身が千切れかけていた。ドバドバなんてもんじゃない、もう出るもん出尽くしたような。そもそも、抑えてるとか何とか言ったくせに、抑える手すら、無くて。なんだ、これ、助からないじゃん。
『それよりも、光史と一緒にここから逃げてくれないか。脆くなった建物がいつ崩れるかもわからない。こんな高い建物の傍に居たら、涼子ちゃんも埋まってしまうよ。埋まるのはあまり楽しくないと思うんだけどね、僕が思うに』
『でも、おじさんとおばさんが』
 こうじ? こうじって、光史か? 俺? いや、ちょっと待てよ、別に同名なだけだと思う。自意識過剰すぎるだろ、俺。……いや、なら涼子っていうのも、そうなのか? いやいやいや、さすがにそれはない。ちょっと俺と声がよく似たおじさんが、息子に光史って名前をつけて、姪に涼子って女の子がいるだけさ。うん、それだけだ。
 一人頷いていると、瓦礫からまた声がする。
『涼子ちゃん、デモもクーデターも無いんだよ!』
「ぶふうっ」
『…………ぶふーッ、げほおっ! これはまずいな。一度言ってみたかったから言ったけど、さすがに言うタイミングがまずかったかね。血がドバドバだ』
 このおじさん、俺と同じ笑いのツボを持っているのか。こんな状況だってのに噴き出してしまった。というかおじさんまでそんな怪我してるのに噴くとか、馬鹿すぎるだろ。この俺に馬鹿だって思われるのは、相当な馬鹿なんだぞ。……ああ、馬鹿だ。馬鹿すぎる。
 瓦礫の前で止まらない涙を流しながら膝を付く女の子。その膝までとっくに血溜まりは広がっていて。女の子が叫ぶ、動かせもしない瓦礫を叩きながら、おじさんに呼びかける。でも、おじさんが返事をすることはなかった。
 しばらくして、女の子が立ち上がる。一瞬、瓦礫に視線を送り、俯く。そして顔を上げると、隣で呆然と瓦礫を眺める男の子の手を取り、二人は歩き始めた。……俺はそれを眺めているだけ。だって、ついて行ってもすることないだろ。おじさんとおばさんは死んだ。終わりなんだよ。
 ……北海道旭川隕石、十五年前の悲劇。そりゃあ悲劇なんだから、こういうことも起こってたんだよな。わかってる、わかってたつもりだけど、さすがに目の当たりにすると参るね。しかもさ、これさ、もう確定しているようなもんだけどさ、うん。――俺の父さんと母さんだよね。
 深呼吸して、瓦礫に頭を突っ込む。
「……へ、へー、父さんって、こんな顔してたんだー」
 さっきはよく見てなかったけど、ああ、確かに似てるといえば似てるかもしれない。喋り方とか、笑いのツボとか、声とか。全部顔は関係ないけど、まあ、見たらわかるって言うのか。十分に観察した俺は、顔を離して座り込む。……傍で母さんも死んでるんだろうか。死んでたとしても見たくはないよなあ。育ての親とは言え、涼子さんは立派な俺の母さんだ。いや、従姉弟だってのはわかるんだけどさ、やっぱ、物心ついた時から母さんは母さんだったわけで。今、その、本当の母さんの死に顔を見ても、なんて言ったらいいかわかんないって。
 座り込んだまま、瓦礫を見つめる。まあ、親が死んだってのは知ってたよ。でもなあ、まさかこの災害に巻き込まれてたとはなあ。ちゃっかり俺もいるし。なんで覚えてないんだよ。二歳だか三歳だかのガキだった俺にそんなことを言うのは酷だけどさ。はあ、マジ、なんでこんなもん見てしまったんだ俺。テンションだだ下がりだって。見るなら見るで、もっと俺に関係のない部分を見たかったというか。
 長い溜め息を漏らす。直後、背景が波打ち始めた。なんだなんだ、やっとこさ終わるのか。というか終わってもまたあの目に優しくない光景に戻るんだろうなあ。やだなあ。家に帰りたいなあ。
 鈍色に鮮やかな色が混じり始め、気付けば周りは極彩色。目が痛い。どうやら元に戻ったらしい。……と、なんでかは知らないけど、目の前でオッサンが俺に背を向けて立っていた。ああ、オッサンだ。思い出したぞ、俺は一発殴ってやらなければ気がすまないんだった。
 さっきまで見ていたものを振り払うように俺は立ち上がると、オッサンに近付く。
「リバースしちまいやがれ腐れジェントルメンが!」
「――ぬんッ」
 叫びながら顔はダメだと思いつつも、俺は顔に向けて拳を振り下ろす。が、すんでのところでオッサンの掌が俺の拳を掴んだ。……えー、なんでだよ、そこは殴られとくべきだろ俺の気持ち的に考えて。
 物凄い力で俺の拳を掴んだまま、オッサンがゆっくりと振り返る。
「やっと見つけましたよ、相羽君。まったく、ワタシとしたことが次元の穴に落ちた時はどうなるかと思いましたが、どうやら貴方は無事だったようですね」
「精神的に死んだけどね。まあ無事なのをお互い確認したところでさ、ちょっと放してくれないかな。なんか手がミシミシいってるんだけど。痛いんだけど」
「おや、失礼」
 放すのかよ! 俺は拳をさすりながら、心の中でツッコミを入れる。なんだ、コイツってば普通にジェントルメン。悪い奴には見えなくなってきた。いや、もちろん変な奴には変わりないんだけどね。
 まだ痛む拳を無視して、俺は単刀直入に話を切り出す。
「オッサン、そろそろ俺帰りたいんだけど」
「貴方が素直に捕まってくれるのならば戻してさしあげましょう」
「捕まるってのはあれか、つまり戻っても拉致されるのにオーケーすればいいってことか」
「そういうことです」
「え、絶対やだし。カレーコロッケ食えないじゃん。馬鹿じゃないの」
 オッサンの眉毛がピクリと反応する。いや、眉毛に反応されても困るんだけど。さすがの俺も眉毛語はわからないというか、すでに人間の領域じゃないよねそれ。俺は眉毛ではなくオッサンの反応を待つ。さすがにもう逃げるのは止めだよ止め、俺だけじゃあここから抜け出せないし。ここに連れてきたと言ってたオッサンに戻してもらうしかない。
 が、オッサンはだんまりだ。何か考えているんだろうか。しょうがないので、俺は別のことを聞く。
「黙る前におしえて欲しいんだけどさ、あの映像ってオッサンが見せたのか? だとしたら相当趣味悪いと思うぜ。さすがの俺もあの映像は精神的に死ねるんだけど。というか死んだわ」
「あの映像、とは? ワタシもこの空間についてはよく知らないんですよ。まあ、わかることと言えばここでは距離も速さも実際の物理法則に縛られることがなく、過去も今も未来すらも内包している。言ってみれば多次元だと、それくらいですかね。何かを見たのだとしたら、それは起こったことか、起こることかのどちらかですよ」
「その饒舌っぷりで帰ってもいいかどうかの返事も答えてくれよ。別に俺なんか殺しても意味ないぞ」
「……そうですね。光史君、貴方は少し勘違いしているようですが、ワタシは別に貴方を傷つけようだなんて思っていないんですよ。少し、ご足労を願いたかっただけでしてね」
 なんだろうな、紳士的な物腰でそんなことを言ってるオッサンだけど、すげえ嘘くせえ。俺にはわかる、オッサンは変人だ。間違いない。変人と紳士ってのはろくでもない組み合わせだからな、こんな常識人的なことを言うだなんて、信じられないね。けど、オッサンにこの台詞を言わせたのは大きい。これなら、戻って俺が家に帰ろうとしても俺を殴る蹴るなんてことはしないだろう。それをしてしまったら、オッサンはジェントルメンじゃあないからな。俺頭良すぎる。感動した。
「わかった、とりあえず戻してくれよ。俺の母さんってずぼらなくせに心配性でさ、買い物頼まれてるし、早く帰らないと大事になるぜ?」
「それは怖いですね。……確認しますが、本当にご足労願えるんですね?」
「はいはい」
「わかりました、では、戻りましょう。ちなみに、今からワタシは叫びますが、決して変人ではないので、気にしないでくださいね」
 そんな格好をしている時点で十分に変人ですよ、と笑顔で言ってやりたい。俺は苦笑いを浮かべながら、早く帰らせろと促す。オッサンは俺から視線を放し、くいっとシルクハットの位置を調整。そして、叫ぶ。
「――プリズン・ブレイクォ!」
 オッサンの声が耳に響いた。変な空気が流れる。え? 何か起こるんじゃないの? なんてきょろきょろしていると、見覚えのある波紋が背景に生まれる。その波紋が狭まり、点になる所で、背景に“ひび”が入った。ひびは甲高い音を立てながら広がり、俺の足元にも達しようとした直後、全てが割れた。
 瞬間、風が頬を撫でる。寒空の下、俺はナンが散らばる道路の上に立っていた。……ああ、戻ってきたんだ。やべえ、涙出そう。実を言うとほんとはすごく恐かったし泣きたかったし泣きたかった。とても泣きたかった。はやく家に帰って、おいしいカレーコロッケを食べよう。うん、それがいい。
 俺は散らばったナンをスーパー袋に戻し、それを手に提げ、家路に着く。
「無視、ですか」
「意図的だったんだけどやっぱりダメだよね」
 背後から怒りを押し込んだような声が聞こえた。振り向けば、ステッキを力強く握り締めているオッサンが俺を睨んでいた。既に夕陽は落ちていて、夜中と紳士姿ってのは想像以上に変態だなあ、なんて思ってしまう。
 俺は逃げる機会をうかがいながら、じりじりと後退する。男にゃ二言はないはずだ、オッサンは俺に対して傷つけるようなことはしないだろう。加えて紳士だしね。けど、考えようか、俺。人を拉致するのに殴る蹴るは必要なのか。オッサンほどの力を持っていれば、俺くらい担いで走るくらいの芸当をしてみせるんじゃないのか。……ありえるね! どうしよう!
「ちょっと確認するけどさ、オッサンは俺を傷つけるなんて真似はしないんだよな」
「ええ、確かに言いましたね」
「じゃあさ、傷つけずに拉致しようとか、思ってないよね?」
 オッサンが黙る。いやいや、そこで黙られると俺としては非常に恐いんだけど。ここでの沈黙は、俺だってわかるよ。悪い意味での肯定だ。拉致する気満々なんだよ、このジェントルは。
「さよなら!」
 結局、逃げる。幸い、ここから家まで1kmも離れてない。ここら辺の道を熟知している俺にかかれば、オッサン如きまけるはずだ。……案の定、走りながら振り向けばオッサンが追いかけてきている。速いね、すげえ速いよ。
 俺はくいっと方向転換して、左の狭い路地へ。車お断りゾーン、ここを通れば二分ほど家までの時間を短縮できる。さらに。
「ほっ」
 不法侵入なんのその、控えめな高さの塀を乗り越えて、知らない家の庭へ突っ込む。こうすることで、さらに一分短縮出来る。いつもは歩いてるから、もっと短縮できるだろうな。へへ、ついてこれるかよ、オッサン。
 庭を抜け、道路へ。人通りの少ない道。もう陽が落ちていて、中々ホラーなムード漂う道だけど、このストレートを逃げ切れば家まですぐだ。ちらっ、と後ろを見る。……やべえな、オッサンが余裕でついてきてる。しかも、おれはここで重大なことに気付く。今、俺は家に帰ろうとしているわけなんだけど、これは、俺の家をオッサンに教えてることになるんじゃないのか。そりゃあ、まずいんでないの。
 直線を走るだけだったのを変更して、俺は再度知らない家の庭へ侵入する。犬に吼えられたけど無視だ無視、とにかく動き回ってオッサンを混乱させよう。運良くまけたら、最短距離で帰ればいい。そうだ、それがいい。頭良すぎるだろ、俺。感動するわ。
 知らない道、狭い道、予想外の方向転換。そんな場所を通っているおかげか、オッサンはついてはくるけど追いついてはこない。よし、この調子だ。正直すげえ疲れてるけど、このまま距離をあければ逃げ切れる。なんかテンション上がってきたぞうひょおおおお!
「ご、お」
 何度目かの庭を突っ走り、路地裏に出て、そこで俺は何かに頭をぶつけた。とても硬いものにだ。なんという時間ロス。反動でナンをぶちまけながら尻餅をついてしまった俺は、上を見上げ、開口。
「あわわわわわ」
「……あんた、こんなとこで何やってんのよ」
 冷たく光る青い瞳が、無様に転んでいる俺を見つめていた。空には少し欠けた月、それに被せるように銀髪が風に揺らいでいて。そんな感じでちょっとロマンチックな表現をしてしまうくらいに綺麗な彼女が立っていた。いや、状況的になんもロマンじゃない。むしろ絶体絶命。前門のトラ、後門のジェントルメン。なんかジェントルメンの肛門みたいで卑猥だな。嫌なもの想像しちまった。
 俺は嫌らしい偶然を呪いつつ、立ち上がる。銀髪女は長い髪を揺らしつつ、いつも通り銃を持っていた。ウェスタンなガンマンみたいに銃をクルクルと回している。やべえ楽しそうなんだけど。……そうか、俺は銃で頭をどつかれたんだな。こう、俺の背後に立つな的な理由で。なんて奴だ、恐ろしい。こんなにも自然に銃を持つことが出来るだなんて、理解に苦しむね! 逃げよう!
「というわけでさよなら! 明日学校じゃ話しかけないでね!」
「待ちなさいよ」
「ぐえっ」
 女に背を向けて、オッサンが追いついてこないことを祈りつつ駆け出し、後ろから服の襟を掴まれた。結果、俺の首は絞まる。すげえ痛苦しい。いたくるしい。
 咳き込みながら振り返り、女を見れば、銃口を俺に向けていた。ああ、これは前にもやられた気がする。いつだったかな。――昨日だよ! 昨日に続いてなんなんだよ! 世界全部が敵に見えてきたぞ。俺を追い詰めて誰かが楽しんでいるとしか思えない。
「あのね、今急いでるんだ、俺。手を上げろごっこは楽しそうだけど、今以外にしてくれないかなあ」
「誰かに追われている、そうでしょ?」
「うんそうだけどなんで知ってんだよ。ま、まさか」
 俺は手を上げつつ女を観察する。この女はオッサンの仲間かもしれない。組み合わせ的に犯罪の匂いがするけど、変人同士だ、十分にありえるぞ。とりあえず女は信用できないので、警戒しながら、逃げる隙をうかがっていた時だった。
「は、はあ、はあ。相羽君、中々、手こずらせましたが、ここで、最後です、よおっ!?」
 オッサンが銀髪女の後ろに飛び出してきた。すごく息を切らしている。なるほど、オッサンは短距離型なのか。俺は長距離型、そこがこれほどまでの差を広げた真実ってやつさ。なんて、くだらないことは置いていて、オッサンの様子がおかしい。格好は既におかしいけど。なにやら銀髪女を指差して、仰け反っている。
「……その変態的な格好は杵褌、投獄者か。向こうから出てきてくれるだなんて、好都合ね」
 ゆっくりと喋りながら、俺に向けた銃を下ろしてオッサンのほうに振り返る銀髪女。見る限り、こいつらは仲間じゃないらしい。なるほど、好都合だ。俺が逃げれる。と、鼓膜が破れたのかと錯覚してしまうほどの大きな乾いた音が鳴り、直後、俺の足まで数センチのアスファルトが砕けた。……撃った、この女、俺に向けて撃ちやがった。小便ちびるかと思ったわ。
「なにすんだよこの腐れビッチ! 俺のパンツ洗濯させるぞくそたれ!」
「黙ってないと、今度は洗濯じゃすまないわよ」
 そりゃあ困る。俺にだって超えたくない一線ってのはあるからな。ズボンのお尻付近を膨らませて帰るのはさすがに嫌だ。俺は黙る。が、逃げる隙を見逃さないように、オッサンと銀髪女、二人の同行を観察する。
「で、杵褌、アンタはなんでこのうるさい馬鹿を追ってるわけ? 普通の人間を捕まえてるほど、そっちに余裕は無いと思うけど?」
「ふふ、ふ……ふう。ガーラック、貴方こそいつまで白を切るつもりなのですか? 相羽君の能力は、ワタシ達にとっても有用であると同時に、危険でもあるんです。仲間にならないのならば、消えてもらう。それは当然だと思いますがね」
 息を整え、銀髪女の問いに答えず、オッサンはしてやったりとか思ってそうな顔でそんなことを言う。いやそれ、すげえ間違ってるから。何が危険だよ、噴き出すかと思ったじゃん。本気で能力とか言ってやんの。まあ、ついさっきまで異次元うねうねを見ていた俺としては“そんなこともあるんだなあ”程度には信じるしかないよ。でもね、オッサンが能力だの何だのと言う度にうさんくさくなるんだよね。やっぱ俺とは住む世界の違う人間なんだよ。ほんともう、こいつらはこいつらだけで生きていて欲しいよね。軽々しく俺を巻き込まないで欲しい。
「能力? は? このうんこ漏らすような男が?」
「まだ漏らしてねえよ! ふざけ――ごめんなさい。うんこです」
 能力なんてものが無いのは激しく同意したいけど、さすがに最後の言葉は見逃すわけにはいかない。俺は堪らず女の言葉を訂正しようとした。が、銃口をちょいちょいとこっちに向けて動かされては何も言えない。大人しくまた黙る。
「それと、私が傷を舐めあうような真似……チルドレンとつるむようなことはないと、それはお前達が一番わかっているはずよ。お前の言う通りこのうんこ男が能力を持っているのだとしたら、私が殺すわ」
 寒気がした。いや、確かに結構寒いんだけど、そういう意味じゃなくて、こう、心臓が冷えた。だって、この銀髪女ってば、本気で俺を殺すよ? 別に能力なんて俺にゃ無いからいいけどさ、もし持ってたら躊躇することなく殺すって、そう思えるくらいに色々なものがこもった声だった。
 女の言葉を聞いて、オッサンがたじろぐ。まあそうだろうね。連れて行けないなら俺を殺すとは言ったけど、女がそれをするってんだから、オッサンの勘違いはことごとく否定されていることになる。ざまあ。オッサンざまあ。
「いいでしょう。ガーラック、貴女と相羽君が仲間ではないということは十分伝わりました。ならばですね、今、ここで相羽君を殺してもらってもよろしいでしょうか。ワタシはね、これだけは確信しているんですよ。相羽光史には能力がある、その一点だけは」
「……どうやら勘違いしているようね、杵褌。前提を忘れているわ」
 とんでもないお願いをしたオッサンに、女は銃口を向けながら言う。
「元々、私とお前達は殺しあう仲だってことをね!」
 叫び声に紛れて銃声が路地裏に響き渡る。撃ったんだ、オッサンに向けて。やだなあ、拉致されかけたとはいえ、人の死体なんて見たくないよ。見たい人間のほうが少ないと思うけどね。俺は目を背けた。きっとオッサンは体のどっかから血を流して死んだに違いない。南無。……なんて、思っていたんだけど。
「――貴女も忘れてしまったのですか、ワタシの能力を。この手で触れることの出来るものは、たとえ月でも異次元まで跳ばすことができるんですよ。試そうとは思いませんがね、月は好きなものでして」
 目を開く。銀髪女の前には、右手を自身の顔の前に掲げたオッサンの姿があった。どこも怪我なんてしていない、さっきの銃声が嘘だったかのようにピンピンしてる。やべえな、オッサン強い。対して銀髪女は、オッサンに銃口を向けたまま動かない。なんだなんだ、無駄なんだろ、もう逃げたほうがいいんじゃねえの。異次元は正直行かないほうがいいぞ、経験者は語る。
 くだらないことを考えつつ、俺は動こうとしない二人を見て、悟る。逃げるには今しかない。そうだ、今逃げずしていつ逃げる! このままじゃオッサンから逃げ切れたとしても女に殺されかねない。そんなことされたら、俺の女不信は一生治らないぞ。死んじゃうからそれすらも意味ない考えじゃん。おわっとる。逃げよう。
 なるべく音を立てないように、俺は体の向きを反転させて、駆け出す――ところで、数歩先のアスファルトが抉れた。遅れて、耳鳴りがしていることに気付いた。とても大きな音がしたんだろうね。諦めて振り向けば、銀髪女が後ろを見ずに銃口だけこっちに向けていた。え、ほんとにそのままで撃つのかよ。というか当たったらどうすんだよ。ガンマン気取りかよふざけんな。……とは言えない。また黙れって言われるのが落ちだからな。泣ける。
 ガーラックは興がそがれたと言うように、後ろに向けていた銃口を下ろし、溜め息を一つ漏らす。そしてオッサンに向かい、喋り始める。
「私は自分が見たもの以外、信じないわ。もしもこのうんこ男が能力を持っているのなら、私が殺す。だから杵褌、今日は見逃してあげる。私の目の前から消えなさい」
「恐いですねえ。では、今日は引いておきましょう。ですが、もし相羽君が今日以降生きているのを確認した場合、ワタシは容赦なく連れて行きますが、いいですよね」
「ええ、いいわよ。その場合、うんこ男は文字通りただのうんこってことになるだろうし」
 なんで俺がうんことか言われなきゃいけないんだよ。なにがただのうんこだよ。頭の中で妄想する。街中、うんこ臭を漂わせて通行人から避けられていた俺は、誰にも助けてもらえず、オッサンに担がれて拉致されるのだ。そしてどことも知れない場所に連れてこられた俺は、何故かうんこ臭を漂わせる能力を持っていることがわかり、何かの実験台にされるに違いない。その内俺のうんこ臭はマニアにはたまらないうんこ香水の原料となって、一生を終えるのだ。……うんこ漏らすわ。そりゃあさすがに怖いよ。
「それでは、失礼します。……ああ、そういえば。ガーラック、頭しか狙わない癖は直しておいたほうがいいのでは? ふふ、ワタシならたとえ百発撃たれたとしても、全て受け切れるでしょうね」
「ふん、言ってなさい。お前の狂言には前々からうんざりなのよ」
 オッサンが暗い路地の奥へ歩いていく。次第に姿が見えにくくなって、足音すらも聞こえなくなった頃、銀髪女がしばらくぶりに俺のほうを向いた。なんか顔が怖いんですけど。銃仕舞わないし。というか、この女は銃を仕舞っているんだろうか。なんか今日、山田と一緒の時に見かけた際も普通に持ってたような気がする。とんでもねえ女だよ。
 なんて思いながら俺は足を震わせていると、女が口を開く。
「で、なんであんたは昨日に続いて今日もあいつらと一緒にいるのよ。仲間じゃないって言ってたけど、さすがに信じられないわ」
「普通の人ならわかるだろ! 追われてたんだよ! 俺だってこの現実が信じられなくなりそうだよ!」
「うるさい」
 女が俺に銃口を向ける。……へ、へへ、もう怖くねえし。さすがにこう何度も向けられたら耐性もつくってもんさ。それくらいじゃ俺はびびらねえぞ。女がカチっという音と共に、親指で銃の安全装置っぽいものを外した。え、安全装置外したら安全じゃないじゃん!
「安全装置外したら安全じゃないじゃん!」
「はあ。ねえ、なんなのあんた、ふざけてるわけ? 杵褌との会話、聞いていたでしょう。あんたが能力を持っているのなら殺すのよ、私。理解してる?」
「じゃあふざけないから帰らせてよ。昨日は帰ってもよかったのに今日はダメとかわけわかんないんだけど。能力とかなんとか意味わかんないし」
「……それもそうね」
 女は急に態度を変えて、銃を下ろした。え、やけにあっさりしてるのな。女には色々あるんだろう。ここは感謝はしないけど帰らせてもらおう。俺は反射的に上げていた手を下ろして、今の今まで存在を忘れていたナンを拾い始める。……思った、俺の持ってる物って一日の最後には絶対ボロボロになってるんだね。密封されてるタイプでよかった。ナンには何の罪もないからな。ナンだけにナンの罪もない。
「ぶふお」
「……えぇー」
 ナンを拾いながら一人で笑ってる俺を見てだろう、銀髪女がたまらず声を漏らす。ふふ、お前にゃわかるまい。俺の崇高な笑いのツボを理解するには、残りの人生を使ったとしても無理に決まってる。そう考えると不憫でならない。人生における何分の一かの笑いを、この女は損してるんだから。ざまあ。女ざまあ。
 ナンを全部拾い終えるまで、女は黙って俺を見ていた。いや、観察と言ってもいいね。なんというか、見られる人間によっちゃ勘違いしてしまうくらいの熱い視線。
「おいおい、俺はそれくらいじゃ日焼けすらしないぜ。俺のハートを火傷させたいんなら、カレーを持ってきな」
「何の話しよ」
「ナンの話だ」
 どうでもいいやり取りをしながら、スーパー袋を手に提げて、俺は女に背を向ける。よし、今日もなんとか生きのこれたぞ。そもそもなんで生き残るか生き残らないかを考えながら生活しなきゃいけないのか。理不尽すぎる。俺は何もしてないのに。
 挨拶する義理なんてあるわけもなく、俺は黙って歩き始める。そこで、背後から女が何かを言う。
「聞かせてくれないかしら、貴方が昔どこに住んでいたか」
「え、北海道だけど」
 わけがわからん。もう振り向くのも面倒なんで、俺は歩きながら答えた。直後、服の襟を掴まれた。結果、俺の首は絞まる。すげえ痛苦しい。
 咳き込みながら振り返り、女を見れば、銃口を俺に向けていた。ああ、これは前にもやられた気がする。いつだったかな。――さっきだよ! なんでもうなんでなんでなんだよ! なにがしたいんだよ!
「北海道、旭川市、“そう”なのよね?」
「ぐ、う、そう、だけど」
 振り向いた拍子に胸倉を捕まれ、銃口を向けられていた俺は答えるしかなかった。答えると、女は襟から手を放し、俺を解放する。はあ、今度こそ死ぬかと思ったね。もう変なオッサンと話したりなんてしないよ。人生の教訓として、心に刻もうじゃないか。
 てっきりこれで用が無くなったんだと“勘違い”した俺は、手に持っていたスーパー袋が銃声と共に弾け飛んだ時、本気で恐怖した。なんてことはない、さっきから変わることなんてなかった、殺意のこもる瞳が俺を見下ろしていた。
「申し訳ないけど、あんたを帰すわけにはいかないわ。殺す理由が出来たもの」
 おいおいおいおいマジかよ。本気で殺すつもりなのかよ。なんでそうなるんだよ、ほんとにわからない。くそっ、だから女は嫌なんだよ。いつもわけのわからん理屈で勝手に怒って、勝手に完結して、勝手に離れてく。近付いてきたのも自分のくせして!
「その理由がわかんないんだけど。ちゃんとおしえてくれよ」
 俺は一分一秒でも先延ばしにしようと、女に話しかける。
 そうだ、とにかく探さなきゃ。こっから逃げ切れる可能性、助かるだけでもいい、とにかく、カレーコロッケを無事に食べられる可能性を見つけないと。……でも、そんな可能性なんてあるんだろうか。だって、絶体絶命だよ。銃口を向けられてるんだぜ。逃げようとしたところで撃たれるだけじゃん。かといって襲い掛かっても撃たれるだけじゃん。……土下座して許してもらうか? いや、そもそも謝る理由がわからない。殺される理由もわからない。
「そうね。強いて言えば、私は能力を持つチルドレン達を皆殺しにする、それだけよ。たとえあんたが今能力を持っていないとしても、今後、いつ“変わる”とも限らないわ。その前に私はあんたを殺す、それだけの理由よ」
 引き金に添えられた人差し指が動く。それがもう少し動いただけで、俺は死ぬのか。それは嫌だ。絶対に嫌だ。でも、さっきから考えてるのに、なんも思い浮かばない。どうしようもないんじゃねーの。
 もう諦めよう、うん、そうしよう。たぶん、俺がなにをしようが変わらないんだと思う。どっかの誰かさんが決めた、どうしようもない人生の結末だったんだよ。そりゃあ世の中の人間全員が普通な人生を送ってるわけじゃないからな。何事もバランスが大事なのさ。こうやって俺みたいにどうしようもなく理不尽な結末を迎えることで、どっかの誰かは普通に生きていけるんだと思う。そう思わないと泣いてしまうくらいに、今の状況は理不尽だった。
 諦めて目を瞑る。急に耳がよくなったと錯覚するくらいに、外の音がクリアになった。……女の落ち着いた息遣いが聞こえる。人を殺すってのに、なんて冷静なんだコイツは。もっと焦ってくれたほうが嬉しい。なんてことを考えてたら、ガキッという金属のぶつかる音がして、俺は死んだ。
 ――と、思った。俺は死んでなきゃいけないはずなのに何故かこうやって考えることが出来てるし、足も地面にちゃんと付いてるし、怖くて握り締めてた拳はまだ痛い。なんだ、もしや天国地獄ってのは現実とほとんど変わらなかったりするのか。たまらず目を開ければ、焦った表情を浮かべながら銃を必死に弄ってる女がいた。あれー。
「あれあれ、どうしちゃったんですか? もしかして銃が壊れちゃったとか? あそこまで啖呵切ってたくせして、それですか? えー?」
「……あと三分待ちなさい、その忌々しい口に銃身を突っ込んでマガジンが空になるまで撃ってあげるから」
 やった! やった! 今になってわかったぞ、コイツはアホの子だ! やった! 
 俺の安い挑発に乗ってしまった女の言葉を聞いて、俺は心底喜ぶ。よし、これは逃げれるぞ。絶対に逃げれる。俺はこの隙を見逃すわけもなく、女に背を向けて逃げ出す。
「待ちなさいって言ってるでしょ! 逃げたら今怖いわよ!」
 へへ、銃を使えない銀髪女なんて全然怖くない。その考えどおり、女は追いかけてくることはなかった。



「母さんただいま! ただいま!」
 家に帰ってきて、まず母さんを呼ぶ。遅れて、母さんがリビングからのろのろと歩いてきた。
「どうしたの、そんなにはしゃいじゃって。というか、買い物してきてって頼んだっ、の、に」
 喋っている母さんに、俺は抱きつく。あー、安心した。別に俺はマザコンじゃないけど、さすがに今日は怖かったというか、安心したかった。泣きそうになるのを堪えて、俺は黙って頭を撫でてくれる母さんに感謝する。
 しばらくして、落ち着いた俺は母さんから離れ、口を開く。
「ごめん、今日は色々やばかった。ナンは飛び散って路地裏の星になった。カレーコロッケ食べたい」
「はいはい、詳しい話は後で聞くから、とりあえずお風呂に入って着替えてきなさいな。さすがに服が汚れすぎ」
 俺は頷いて、言われたとおりに洗面所へ向かった。
 服を脱ぎながら考える。ほんとに今日は疲れた、昨日の比じゃないね。なんというか、一生に迎える危機を今日一日で全部消化したと言えばいいのか。人生ってなんなんだろう、なんて考えてしまうくらい、今日はやばかったね。
 気持ち熱めに調整したシャワーを頭から浴びる。とてもじゃないけど、明日は静かに過ごしたい。そりゃあ二日連続でこれだもの、明日くらい静かに過ごしたっていいだろう。主に俺に対して迷惑はかからないはずだぞ。
 頭と体を軽く洗い、気が利くことに湯が張られていた湯船にどっぷり浸かる。……でも、ちょっと知りたいと思うことも多かった。隕石もそうだし、能力とやらに関しても二人が狂言師でもない限り本当にあるんだろうし。認めたくはねえけど。
 軽く体を洗い流して、風呂から出て、タオルを手に体を荒々しく拭きながら、下着を捜す。明日は久しぶりに天文部に行こうかなあ。あまり部長とは会いたくないけど、あそこには隕石関連の資料が置かれていた気がするし。うん、部長には会いたくないな。
「おお、用意されてるだなんて」
「もう夜遅いし、はやく食べちゃってよー」
 リビングに来ると、台所で食器を洗ってるんだろう母さんが早く食べろと促してきた。俺は食卓に着いて、香ばしい匂いに心躍らせる。ああ、カレーコロッケだ。もう食べられないかと何度思ったことか。また泣けてきた。箸を手に、カレーコロッケを口に入れる。……おいしい。なんておいしいんだろう。このサクサクと香ばしい衣の下に、素晴らしき僕らのユートピアが広がっている。油で揚げたことを忘れさせる爽やかな香辛料、咀嚼することを止めさせない旨味、何よりも病みつきになるこの辛さ。母さんのカレーは最高だ。十分に噛み締めたカレーコロッケを飲み込み、またカレーコロッケを口に入れる。それを繰り返すこと六回、皿の上に置かれていた熱々のカレーコロッケは、跡形もなく消えていた。満足満足。
「あら、もう食べちゃったのね」
「うん。今日もおいしかった」
 食べ終わったところでちょうど母さんが家事を終えて、一升瓶を片手に歩いてきた。そのまま俺の向かい側に座ると、一升瓶をラッパ飲み。母さんぱねえ。俺は酒なんて飲めないから、とてもすごいことをやっているように見える。実際は変人のすることだと思う。うん。喉を鳴らしながら酒を飲んでいる母さんを見て、思い出す。そういえば今日、母さんの小さい頃を見てきたんだった。小さいと言っても、中学一年生とかそれくらいだけど。今と比べちゃ酷だよね。とりあえず気になることがあったから聞いてみる。
「あのさ母さん、俺って昔旭川に住んでたんだよね?」
「そうよー。光史のおじいちゃんとおばあちゃんの家に住んでたの。懐かしいわねえ」
「旭川に隕石落ちたじゃん。あれでその、本当の母さんと父さんが死んだんだよね」
「……そうね。というか、光史ってば覚えてたんだ」
「覚えてたというかなんというか、今日思い出したというか」
「へえー」
 見る限り母さんのテンションが下がった。こいつはタブーくせえ。あんまり振っちゃいけない話題だったかなあ。でも、これであの時見た映像が本当のことだってのはわかった。つまり、オッサンの言う異次元やら能力やらは存在するんだということ。なんだかなあ。
 求めてるものと現実とのギャップに俺が悩んでると、母さんがまたラッパ飲みをする。見る限り自棄酒くせえ。なんか申し訳なくなったから、別の話題を振る。
「そういえば最近物騒だし、夜道は気をつけたほうがいいよ。なんか銃持ってる女とか男とかジェントルなオッサンとか出没するっぽいから」
「やけに詳しいわね。ジェントルなオッサンってなによ」
「タキシードに身を包んだ紳士らしい。なんでも、幼女ばかりを狙って拉致し、監禁するんだとか」
「全然紳士じゃないわよねその人。そんなことよりも時間見なさいな。とっくに0時回ってるわよ」
「寝る」
 母さんの付き合いが悪い。そんなにダメな話題だったのかよ気にすんなよマジへこんだ。でも、言われたとおり明日は学校があるわけで、時間は気にしたほうがいい。飲むことを止めない母さんにおやすみの挨拶をして、俺は自室へ向かった。
 布団に包まるころには既に眠くなっていて、あれこれ考えようとも思ったけど、やっぱり俺には無理なわけで。暗くなった部屋の隅を見つめながら、今日あったことを思い出して身震いする。そりゃあ怖いさ。平和だと思っていた近所であんなことがあったんだもの。とてもじゃないけど、夜遅くまでバイトをする気にはなれない。今週はシフトを減らしておいてよかった。……寝よう。布団を頭まで被せて、眠りについた。




次回:第四話『俺の手からボルケーノ』
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