二日目(4)
…………は?
「今、何て?」
井原も目をむいて、
「そうだ、なぜそんな結論になる」
「僕が、ケモノ……?」
水野は、その事実を唾液と同時に飲み下した。
杉田は言う。
「違いますか? ではなぜ、彼は【喰われて】いたのでしょう?
あなたが大塩殺しの犯人だと仮定して、公園に大塩の死体を放置していたとしたら、どうして都合よく、ケモノは大塩を喰ったのでしょう?
死体を、ですよ。千載に一度ぐらいの確率で、ケモノが森林公園を通りかかったとしましょう。死体を見つけます。常軌を逸したケモノは、すでに死んでいる肉体を、喰いたいと思うでしょうか?
いいえ。それはありません。なぜなら彼は、倫理だけでなく、運動能力も並はずれているのです。それはいままでの現場の状況から判断できます。なので落ちている死体よりも、狩ったばかりの新鮮な肉体を喰らう方が、まだ理解できます。――つまり、合理的に考えると、ケモノは大塩の死体を喰うはずがない」
ケモノは証拠を一切残さないという、ある程度知能の高い殺人鬼。合理的な理論が、通用してしまう。
「……」
「それではなぜ、大塩がケモノに喰われていたのか。単純に出される結論はこうです。――あなたがケモノだ、ということ。それなら殺害の動機ともなるし、殺した人間と喰った人間が別という推論よりは、はるかに合理的です」
機械のような人だな――と、水野は一仕事終えたばかりの杉田を思った。
だが、そのようなことを考えている余裕はないらしい。何かいい返さなければ――捕まってしまう。
自分は、大塩を殺してなどいない。それは確かだ。
彼女の論理は仮定の部分から間違っている。
その事実は、この自分が証明できる。だが悲しいことに、彼らにそれは通用しない。
だから。
「あの」
声を発しただけなのに、警官達の身体は、びくっ、と震えた。
「どうした?」
井原が訊き返す。
「さっきから、自分が大塩を殺したという仮定で話が進んでいますが……それに見合うだけの証拠、あるんですか?」
しかし井原は残念そうに首を振り、煙草を取り出したコートの裏に手を入れた。やがて透明なパックを、水野に差し出す。
そのなかには、ピアスが転がっていた。
「……!」
「それは、確かお前のものだよな」
丁重に袋で包まれたピアスは、確かに水野のものだった。
それは、とあるきっかけで手に入れた一品だった。とても珍しい形から、世界にふたつとない代物だということは容易に知れる。
あれは――そう。二年前……
…………
水野はそれを、ある自戒とともに保管していた。
「どうして、これが……?」
「現場に落ちてたんだよ」
そんな馬鹿な。
水野は立ち上がり、デスクに回って引き出しを確認する。いくら大切なものでも、使わなければ意味がない――そう思い、手近な机に仕舞っていた。もちろん鍵は掛けていなかった。
悪い予感はあたっていた。
保管していた箱の中には、あるべきものがなかった。ぽつんと輪を入れるための小さな突起は、ピアスが収納されるのを、寂しげに待っていた。絶望で目の前が真っ暗になりそうだった。
「これで、証明されましたね」
杉田の、冷たい声。
しかし水野は、違うことを考えていた。
あの鍵穴の傷――
誰かが、自分に罪を着せるため、盗み出したに違いない。
署に同行する前に、トイレに行っていいですか――と、水野は訊いた。井原はゆっくり、ああ、と頷いた。
トイレは洋式の便器と、小さな手洗いがついた、二メートル四方の小部屋だった。便器の上には、換気用の窓が取り付けられている。ぎりぎり大人が通り抜けられそうな幅である。
水野はここに事務所を構えて以来、一度もそこを開けたことがなかった――が。
留め具を上げ、窓枠をつかんだ。
ぎぎぎぎぎ……
摩擦がひどい。サッシの上端まで開けると、冷たい風が火照った水野の身体を冷やした。いくらか冷静になれた気がする。
便器を踏み台にして、足から窓に入れた。足の裏の感覚で突起を探す。ちょうど真下にパイプが通っていた。
ぎし、と軋む音。大丈夫。ゆっくりと体重を掛ける。大丈夫。胴体まで外に抜けたそのとき――
がっ、がっ、とドアが振動した。
「……!」
しばらくしてドアは破られる。出てきた警官と目があった。
刑事! と叫ぶ声。
「水野っ! おとなしくしろ!」
警官達の横を割り込み、井原は手を伸ばした。「くっ!」避けるため、身体を後ろに下げる。勢いにのった所為で、宙へ。
「――!」
咄嗟に、さきほどまで足をかけていたパイプをつかむ。パイプは粉が吹いており、指が、ずる、ずる、と抜けていく。汗もそれに拍車をかける。下を見ると、圧倒的な硬度を誇るアスファルトが待ち受けていた。交通人が、何ごとかと水野を見上げている。
井原が窓から顔を出した。
「掴まれっ!」
手が降りてくる。
しかしもう駄目だった。汗と粉が混ざり合い、指とパイプをつなぐ力は、零。
手を差し出す前に、水野は地面へ落下――した。
…………
生きていた。
偶然、着地した地点には小さな植え込みがあった。それがクッションとなり、大事には至らなかった。運の良さもあるかもしれない。
ピキリ、と。
頭の奥に闇が過ぎった。が、問題はない。一瞬で掻き消えた。まだ動ける。鈍い痛みをこらえながら起きあがった。
階段から、焦ったように降りてくる足音が聞こえた。
「くそっ……」
この疑いを、はらさなければならない。
だがその前に。
取りあえず、逃げなければ。