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夏の記憶

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ぎゃおん ぎゃおん ぎゃおん ぎゃおん
子犬サイズの蝉がどこか悲しそうに鳴いている。
節足動物らしからぬその悲哀にみちた鳴き声は私の気を滅入らせる。
「お姉ちゃんあれ捕ってよ」
今年の春に小学生になった弟が蝉を指差し私のスカートの裾を引っ張る。
私は弟の顔を少し見てから蝉の方を眺めた。
巨大なストロー状の口吻。でっぷりと肥え太った腹部。こっちの様子を伺うような黒い眼球。
威圧感漂う巨大な体躯。異常なまでに発達した羽の筋肉。そして無駄に悲壮感あふれる鳴き声。
無理だ。私には無理だ。生理的に受け付けない。触れることすらままならない。
この虫がこちらに飛んできたら泣いてしまうだろう。
「ごめん。お姉ちゃん虫苦手だから」
私は苦笑いしながら弟に返事をした。
すると弟は不貞腐れたように
「いいよ。じゃあ」
とつぶやいて蝉の方に歩いて行った。
そしてある程度近づくといきなり蝉に飛びかかった。
蝉は大そう驚いたらしく、赤ん坊の鳴き声に似た鳴き声をだしながら暴れた。
弟はなんとかそれを抑え込み地面に組み伏せる。
「やった!捕まえたよ」
弟は誇らしげに手に入れた獲物を抱き上げ、びっくりしていた私に見せた。
「す・・・すごいね。で、それどうするの」
「虫かごで飼う」
あまりの恐ろしさに私は絶句した。家の中でこの虫が鳴き喚き続ける・・・。
想像しただけで身の毛がよだつ。それだけは絶対に阻止せねばならなかった。
私はこの小さな暴君をどうやって説き伏せるか少し考えた。
そして結局、命の儚さを建前にして蝉を逃がす案に決定した。
私は偽善者だった。本当は蝉の命なんてどうでも良かったのだ。
己の保身だけの為に私はヒトラー並の熱弁を振るった。
話を聞いた弟は感極まったのか泣いてしまった。私は少し慌てた。
まさか泣いてしまうと思わなかったのだ。私は必死に弟を泣き止ませる為の言葉を探した。
「ごめんね蝉さんごめんね」
そんな私をよそに弟は蝉を逃がしていた。私が思っていた以上に弟は無垢で純粋だった。
飛び去っていく蝉を見送りながら私にも弟のような時期があったのだろうかとふと思った。
こうして長く短い私の小5の夏休みが始まった。





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