「後日伺う」と言っていた筈の女性が戻ってくるのを見て、『彼』は怪訝な表情を浮かべた。
「何だよ?
忘れ物でも――」
そう言いかけたところで、突然手首をがっしり掴まれた。
そのまま店の外まで引きずり出された『彼』は、尚も離そうとしない彼女に怒鳴る。
「おい、何するんだよ!」
彼女はようやく振り返り、静かに言った。
「黙ってついて来なさい。
――貴方にこの世界の『現実』を見せてあげる」
「どういう、意味だよ」
彼が訊き返したとき、すぐ傍に銀色の乗用車が停止した。
助手席の男性が、こちらに指示を促すような仕草を見せている。
「時間がないわ。
乗って」
彼女は口早に言うと、後部ドアを開けて『彼』を放り込んだ。
直後、彼女がシートに滑り込みドアを閉めるや否や、車は急発進した。
『彼』はシートに座り直すと、前席にいる2人の男性の格好をルームミラー越しに確認した。
体格のよさそうな、おそらくは30代前半であろう彼らは黒いスーツに身を包み、険しい表情をしている。
悪い人ではなさそうだけど……多分、普通の仕事をしてるわけじゃないんだろうな。
「状況は?」
女性が尋ねる。
助手席に座っている男性が、すぐさま答えた。
「中韓両軍が正面からぶつかってます。
現在は均衡状態ですが、いずれ物量で押し切られますよ。
ロシアか内陸部の国家が動けば別なんですけどねぇ」
彼の呟きに、運転席の男が反応を返した。
「どちらも動くとは思えないな。
今回の軍事行動は『東進政策』の一環だろう。
どう見積もったとしても、被害を受けるのは半島、台湾、日本の3つ。
そのどれに対しても軍事協力関係を持たない国家が介入するのはリスクが大き過ぎる」
『彼』は、彼らのやり取りを呆然と眺めていた。
こいつらは一体何を言っているんだ……?
もしかして、別の意味でヤバい人達なのか……?
そんな思考ばかりが頭の中を埋め尽くしている。
「こちらの対応はどうなっているの?」
「対馬と北九州に通常戦力を集中、同時に国内各地の基地と駐屯地に配備している弾道弾迎撃システムを展開し、第一次攻撃に備えているとの事です。
更に、韓国側の要請があり次第、一部部隊の派遣を行うつもりであるとの連絡が先ほどありました」
「あの国に限ってそんな事起こり得ないでしょうけれど。
いずれにせよ、私達が駆り出されるのは確実ね」
彼らは、『彼』の存在など少しも気にせず喋り続けている。
――いや、そうではなかった。
時折、ほんの一瞬ではあるが、ルームミラー越しあるいはサイドミラー越しに『彼』へと視線を向けては、その様子を監視しているらしい。
俺の事を警戒しているんだろうか。
一瞬、そんな事を考えた。
突然部外者が無理矢理車に押し込まれたんだ、不審に思われたっておかしくない。
だが、よく見てみるとそうではないようだった。
むしろ、好奇心とか興味といった雰囲気だ。
『彼』は暫く車内での会話に耳を傾けていたが、何処かの地下駐車場に入ったところで前席の2人が黙り込んだ。
「――そろそろ到着するわ」
彼女は――おそらくは『彼』に対して言ったのだろうが――そう呟いて窓に視線を向けた。
『彼』もまた、窓際に顔を寄せる。
LED照明の冷たい光に照らされ、何の変哲もない駐車場がそこに映し出されている。
車はやがて、適当な空き場所に滑り込んで停止した。
「降りなさい」
女性に促され、『彼』が手近なドアを開けて降りる。
続けて女性と仲間の男性2人が降りると、彼らは向かい側にあるエントランスに向かって歩き始めた。
それを追いかけるようにして、『彼』はその後を歩いていった。
エントランスを潜り抜けてすぐ、彼らはエレベーターに乗り込んだ。
『彼』が乗り込む直前、警備室にいた初老の男性がこちらに厳しい視線を向けていた気がしたが、それを確かめる間もなくドアが閉じた。
高層ビルに備え付けられているのとは異なる、やや低速のエレベーターが下降を続ける中、女性が『彼』に話しかけた。
「降りたら、絶対に私から離れないで。
でないと貴方の身の安全を保証できないわ」
「身の安全って、どういう」
「少なくとも無事では済まないでしょうね。
五体満足で帰りたかったら、言う通りにした方がいいわよ」
尋ねる『彼』に対し、彼女は冷静な口調で忠告した。
『彼』が頭を抱える。
「冗談じゃない……、どうしてこんな事に」
『彼』のその呟きは、苛立ちと恐怖を含んでいた。
その内にエレベーターの下降が止まり、ゆっくりと扉が開いた。
その先には、埋め込み式の照明に照らされた薄暗い廊下が広がっている。
「行くわよ」
彼女はそう言って、エレベーターを降りた。
女性が先導する形で、4人は廊下を歩いていく。
『彼』は左右を見回しながら、後ろの男性2人にせき立てられるようにして歩いていた。
暫くして、一行は廊下の突当たりで立ち止まった。
目の前には、見るからに頑丈そうな2枚の扉がピッタリと繋ぎ合わさっている。
その中央にあるカメラが小刻みに動いたかと思うと、どこからか合成音声が聞こえてきた。
『4名ノウチ3名ヲ認証シマシタ。
残リ1名ヲデータベースニ仮登録、住民登録ト照合。
……認証シマシタ。
ゲートヲ開放シマス』
そう言い終えると同時に、扉が左右に開いた。
扉が完全に開いたところで、一行は先の通路に足を踏み入れた。
通路を歩いている途中、『彼』は少し気になったのか、先を行く女性に尋ねた。
「なあ……。
一体どこまで歩けば着くんだ?」
「もう少しよ」
そう言って、彼女は指で進行方向を示した。
通路の突当たりに、また扉があるのを『彼』は確認した。
「まさか、アンタ達は何時もこんな面倒な事をしてるのか?」
「違うわ。
普段は別のルートから入っているの。
今回は、貴方の仮認証を取らないといけないからこのルートにしただけ」
彼女が素っ気無く応える。
その間にも、一行はその扉へと近づいていた。
「最後に忠告しておくけど、これは貴方を採用するかどうかの試験でもあるわ。
逃げるのか、立ち向かうのかは……貴方自身で決めなさい」
「それってどういう――」
『彼』が訊き返そうとした瞬間、扉が開いた。
突然巨大な空間に飛び出て、『彼』は戸惑った。
見た事もない巨大な機器が幾つも並べられ、低い唸りのような駆動音を上げている。
その横には、人が余裕で入れそうな、大きな卵型の装置も並んでいる。
空間の最奥に据え付けられた巨大なモニターには、世界地図らしきものが表示されているようだった。
立ち竦む『彼』を前に、彼女ははっきりとした口調で告げた。
「防衛省へようこそ。
――これが、この世界の現実よ」
『彼』は、何の予告もなく叩きのめされたような感覚を味わっていた。
「これが……、世界の現実だって……?」
信じられないといった調子で、『彼』は思わず呟いた。
その時、部屋の奥から誰かがこちらに向かって歩いてきた。
近づいてくるにつれ、ダイバースーツに小型の機械を取り付けたようなものに身を包んでいることに気づく。
そして、顔つきや体型からして男性である事は明らかだった。
「若狭」
その男性の呼びかけに気づき、女性はそちらを振り返った。
「若狭ミサキ少尉、ただ今帰還しました」
そう言って姿勢を正すと、彼に敬礼した。
彼も軽く敬礼を返すと、すぐ『彼』の方に視線を向けた。
『彼』は半歩ほど後ずさると、男性の顔をまじまじと眺めた。
「例の少年か」
彼が尋ねると、若狭ははい、と答えた。
「私自ら手合わせしてみましたが、それなりに素質はあるようです。
ただし、CPU慣れが少し酷いようですが」
「フムン」
彼は腕を組んで『彼』の方を眺めていたが、やがて若狭の方に向き直った。
「俺の方はこれから任務だ。
案内はお前に任せる。
――もし必要なら、偵察機の映像をそこの坊主に見せてやれ」
「了解しました。
お気をつけて」
彼女の言葉に対し、男性は手を2、3度振って答えると卵型の装置の方へと歩いていく。
装置に辿り着いた男性が、側面に取り付けられた何かを操作したかと思うと、装置の上半分が開いて真上に持ち上がった。
男性が乗り込んで横になると、蓋はゆっくりと下降して元の位置に納まった。
「任務って一体何なんだ」
『彼』が尋ねると、再び歩き始めた彼女は答えを返した。
「おそらく偵察よ。
今、中韓両国が戦闘を続けているから、その関係でしょう」
「戦闘?」
「来なさい。
どういう事か教えてあげる」
首を傾げる『彼』に、彼女は早く追いついてくるよう促した。
「若狭少尉。
外務、お疲れ様です」
一行が奥のモニタールームまで来ると、付近の机にいた女性が声を掛けてきた。
歴史の資料集で見たような、軍服らしい制服に身を包んだ女性は、見かけ『彼』と年齢差は殆ど無さそうだった。
若狭は、『彼』を指し示して言った。
「この子に、今の戦況を説明してあげて」
「はい、分かりました」
女性はそう答え、彼を傍の椅子に腰掛けさせた。
彼女はもう1つの椅子に座り、『彼』の前で機器を操作し始めた。
「現在のところ、中国側が有利ですね。
人民解放軍の主力部隊は、今この地点で韓国軍と戦っています」
そう言って、目の前のディスプレイに表示された地図を指で示した。
『彼』にとっては、普段から見慣れている地図だ。
――赤と青に色が塗り分けられ、何種類かの記号がその境界に示されている事を除いては。
「赤が中国軍、青が韓国軍の勢力範囲を示しています。
現在の戦闘区域は北緯39度から38度付近にかけての範囲ですね。
ピョンヤンの防衛線は突破されつつある、といった所でしょうか」
「防衛線って……。
まさか本当に戦争をやってる訳じゃないよな?」
「本当にやっています。
表に出さないというだけであって、実際には協定締結以降も多くの国家間戦争が勃発しています」
『彼』の問いかけに対し、彼女は素っ気無く答えた。
「2年前には我が国と韓国との間で武力衝突が発生していますし、つい先日には英仏間で戦争がありました。
ただ、現実世界で行われている訳ではないので、軍事関係者以外の殆どはその事実を把握していないと思いますけど」
「現実世界じゃない?
じゃあ、一体どこでやってるんだ……?」
「仮想空間上です」
彼女はそう答えた。
その時、画面の端にスピーカーのアイコンが表示された。
彼女はインカムのスイッチを入れ、通信を要求してきた相手に呼びかけた。
「こちら『ソーサラー』。
用件を報告して下さい」
『『グレイゴースト』より『ソーサラー』へ。
若狭の連れてきた坊主はそこにいるか?』
スピーカーを通して返ってきた声は、先ほど会った男性のものだ。
彼女は『彼』の方に振り返ると、返事を返した。
「いますよ。
私の隣に座っています」
『そいつは都合がいい。
今、そちらに映像を送る』
「『ソーサラー』、了解しました」
そう言って、彼女がキーを幾つか操作する。
すると、地図の上に別枠でウインドウが表示された。
「映像を受信します」
彼女がキーを再び操作すると、ウインドウ内に鮮明な画像が表示された。
「何――だよ、これ!?」
『彼』が思わず声を上げる。
そこに映し出されていたのは、陣形を組み、川を挟んで撃ち合いをしている人間型の機械の集団だった。
それも、『彼』があのゲームでいつも見ていたような機体ばかりが。
目を凝らしてみれば、所々に放置された車両も、それぞれの勢力が使用している武器も、全て見覚えのあるものばかりだ。
「どういう……事だよ」
『彼』が遊んでいたゲームそのままの世界が、そこに広がっている。
つまり、俺が遊んでいたのは――。
「これが、現代(いま)の戦争よ」
若狭は、戸惑いを隠しきれない『彼』に向かってそう告げた。