第十五話 誰かに寄り添いたくて仕方ない元飼い主と拒む恋敵
美貴は迷いを浮かべて立っていた。
もう八時を過ぎた。バット男が現れるかもしれない時間だ。
今の彼女にはどうでもいい事柄であったが。
美貴は人差し指を突き出して、硬直していた。
そこは、雄一の部屋の前。インターホンに人差し指がくっ付く間際だった。
美貴は、ざわつく心を抑え、指を力強く前に突き出した。力を込めすぎて、
突き指した。
ドアノブを捻り、突き指した人差し指を手で押さえ、肩でドアを押した。
「せんぱい! いますかせんぱい! 相沢です!」
美貴は、突き指の激痛もあってかオーバーに叫んだ。
「いるよ」
奥の暗闇から、声がした。
「入ってもいいですか! 電気もつけて構いませんか!」
今度は何も声がしなかった。美貴はそれを応じたと判断して、靴を脱ぎ部屋
に上がり、壁のスイッチを押し、廊下の暗闇を追い出した。
「せんぱ――」
美貴は、地の獄に突き落とされたようになった。
見たくなかった、大好きな人の堕ちた姿。
廊下から漏れ入る光は、雄一の姿を僅かしか映さなかったが、それは美貴が
雄一の状態を把握するに足るだけのものだった。
三年も、それも真剣に見続けてきた姿だ。
こんな堕ちた雄一は、美貴は本当に初めて見た。
感情のない顔に、美貴の膝はかくかくと震える。
力感のない体に、美貴の心は折れそうになる。
知らない、知りたくもない好きな人の姿に、目を背けたくもなる。
美貴はしかし、一歩踏ん張った。
部屋の電気を点けた。
くっきりした明かりに照らされた雄一は、全身が萎えていて、美貴には小さ
く見えた。
美貴は、雄一の肩を揺すった。
「せんぱい。れいんさんを追わなかったんですか?」
雄一は、体をゆらゆら揺らされながら、何も答えようとしなかった。ただた
だ脱力していた。
「…どうしたんですか、せんぱいが、そんな情けない」
「…情けない? そうか、そうかも」
「そんなせんぱい、私見たくない」
美貴は、雄一を睨み付けられるようになっていた。
「なんで、追わなかったんですか? 愛していたんでしょう? それなのに――」
「そうさ、愛していた筈なんだ」
「間違いなく」
美貴は、雄一を見て力強く言った。
「『間違いなく愛していた』と言えないんですか?」
「…………」
さらに語気を増して言った。
「そんなことも、言えないんですか?」
「言いたいよ。でも……あいつは去って行った。俺は愛していたんだ。でも……
れいんはそうじゃなかったんだ。だから、俺まで揺らいで――」
「せんぱい!」
美貴の声が響いた。そして少しの沈黙の後、ぽつりこぼした。
「…好きだから、愛しているから、れいんさんは出て行ったんですよ。絶対に」
雄一は、静かに立ち上がった。そして、言った。
「俺はどうすればいいんだろう」
「追い掛けるんです」
「どこにいるのか分からない」
「調べます、数日時間下さい」
「なあ」
「なんです?」
「なんでそんなに優しくする?」
それを聞いて、美貴はきょとんとした。そして吹き出した。
ああ、鈍感だ、この人。
大好き。
――今しかない。美貴は、覚悟を決めた。
「せんぱい、一つ見返りと言ってはなんなんですけど……」
「ん」
握り締められた手は、汗でいっぱいだった。
「抱いて下さい」
「え」
「一回だけで、いいから……」
この機を逃しては、もうこんな機会はないかもしれない。
「…ダメですか」
「…………」
瞬間。
「…暖かい……」
雄一は、美貴の体を包み込んだ。
美貴は、全身が鋭敏な性器になったような感覚になっていた。
全てを。
大好きな人の全てを余さず、感じ取ろう。
そう、強く思っていた。
一分ほどそうして、美貴は自分から雄一の体を押して振りほどいた。
「このことは、黙っててあげます。一生。お墓まで、持って行きますから!」
美貴はそう言って身を翻した。それからすぐに「大事に」と小さな声で呟いて。
美貴が出て行った後、雄一は「あ……」と言い、部屋でごろごろ転がって悶絶した。
数日後、れいんの居場所が雄一に伝わった。