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第五話 最初の飼い主

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第五話 最初の飼い主

 数日が経った。
 時間の経過は、れいんと雄一の間に発生したわだかまりのようなものを氷解させ、
その上さらに二人の距離をも縮めさせる結果になった。
 この日は土曜日。二人は、町中で手を繋いで歩いていた。どこからどう見ても恋人
同士である。
 雄一より頭一つ小さいれいんは、歩幅の大きな雄一について行くため大股歩きだっ
た。それに気付いた雄一は歩幅を少し縮めた。れいんは嬉しそうな顔で雄一を見て、
ありがとうと言った。
 雄一は、視界の端にクラスメートを発見した。クラスメートは間もなく雄一に気付
き、近付いて来る。
「よお雄一」
「誰? その可愛い子。どういう関係よ?」
 二人のクラスメートの顔を見て、少し考えて雄一は言う。
「妹」
 意外なその言葉を聞いて、二人はあっけらかんとしていた。雄一はそれを無視して
再び歩き出した。
「…妹だって。おかしいよな、妹と手繋いでさ」
 片方が沈黙に耐えかねてか笑いながら言った。
「…………」
 もう片方は黙りこくっていた。
「おい?」
「…近親相姦」
「は?」
「近親相姦」
「…近親相姦?」
「キンシンソーカン!!」
「キンシンソーカン!!」
 いつの間にか、二人は肩を組んで合唱していた。通り過ぎる人々は皆二人を見て、
ある人はひそひそ話をし、ある人はメールを打ち、ある人は警察を呼びに交番に駆け
出したりしていた。

 れいんと雄一は、ただ町をぶらついていたが、ある時れいんが口を開いて言った。
「ねえ、何をしに来たの?」
「そういやそうだな。映画でも行くか?」
 れいんは頷いた。
「…思い出すな」
「何を?」
 れいんの呟きに、雄一が反応して言った。
「お父さんのこと」
「そういや、お前にまだ聞いてないことがあった」
「何?」
「そのお父さんのこと。お前、両親いないのか? いないから、俺と暮らしてるんだ
ろうと思い込んでたけど……」
「…二人いたの」
 れいんの表情が、ほんの少し引き締まった。
「二人?」
「一人は、私の遺伝子の半分を持ってる人。最低な人。そして、もう一人は……私を
育ててくれた人。最高の人――」

 例年に無く雨の多い年だった。長い長い梅雨が、夏の到来を阻んでいた。
 酔いどれの中年男が、雨の中傘も差さずに歩いていた。
 男は、自分がまるで映画のスローモーションの中にいるような感覚だった。
 周囲の全てがスローに感じられ、無数に落ちてくる雨粒が、一粒一粒識別できるよ
うな気がしていた。それは勿論気のせいであったが。
 男は、何も無い所で転び、ゴミ捨て場にダイブした。少し間が空いた後、へへへ、
と言って体を払った。
 雨音に紛れて、小さなクシャミの音がした。
 中年男は初め気付かず、そのまま通り過ぎようとした。クシャミがもう一度響いて、
やっと気付き音の方に首を回した。
 そこにはそれ程大きくないダンボールがあって、中には小さな少女がいた。
 中年は止まった。少女は、ずぶ濡れの中鼻をすすりながら、中年の目をじいっと見
ていた。
 やがて中年は再び歩き出した。少女を置いたまま。
 少女は、中年が去った後も目線を変えずにいた。またクシャミをした。その体は細
かく震えていた。
 少し空いて、少女は中年が去った方向に目を向けた。走ってくる人間をその目に捉
えていた。
 走ってきたのはさっきの中年で、少女を抱き上げてまた元の方向に走り出した。
「おめぇ、犬みてぇだな」
 走りながら、中年は言った。
 少女は何も答えなかった。

 中年は、息を切らして銭湯の中に入った。
「あらぁ、どうしたのシゲさん、ずぶ濡れ。それにその子は?」
 銭湯のおばちゃんにシゲさんと呼ばれた中年は、
「道端に落ちてたんだよ。拾った」
「お譲ちゃんいくつ?」
 おばちゃんは少女に顔を近づけて言った。
「四歳」
 少女は言った。
「四歳なら、入浴料タダね」
「タダ? マジかよ」
「シゲさんは350円だよ」

 シゲは少女を抱いて、湯船に浸かった。
 大きく息を吐いた後、シゲは気持ちいいだろ、と言った。少女は何も反応しなかった。
シゲは気持ち良さそうな顔で目を瞑った。
「おめぇ、名前は?」
「…………」
「名前くらい、教えてくれよ」
「…名前って何?」
 少女がやっと口を開いて言った言葉がそれだったので、シゲは大分意表を突かれた。
「何ってそりゃおめぇ……名前は名前さ。俺には『芦原繁行』って名前があるぜ」
「あしはら、しげゆき……」
 少女はシゲの言った名前をなぞった。
「そうだ」
「名前って呼ばれるものなの?」
 少女はまた訊いた。
「そうだよ。皆俺のことは『シゲ』って呼ぶけどな。たまには全部言って欲しいぜ」
「あたし、呼ばれたことない」
「名前をか?」
「うん。だから知らないの。昨日までお父さんとお母さんがいたのに、一回も名前呼ば
れたことなんてないんだよ」
「名前じゃねぇなら、なんて呼ばれてたんだ?」
 シゲは、少し神妙な顔になって訊いた。
「『お前』とか、『あれ』とか、『こいつ』とか。後……」
「いや、それ以上言わんでいい」
 児童虐待。シゲの頭に浮かんだ四文字だった。
 シゲは、少女を抱く力を無意識の内に強めた。
「名前を付けてやる」
「名前? 何?」
「…………」
 シゲの頭には、少女を拾った時の光景が甦っていた。
「…れいん」
「れいん?」
「そうだ、れいんだ! 女の子らしい、いい響きのする名前じゃねぇか?」
「れいん」
 少女は声に出して言ってみた。
「れいん、れいん、れいん、れいん、れいん」
 そして、何度も繰り返した。
「いい名前ね」
 そう、少し笑顔になって言った。
「俺は子供がいねぇんだ。そもそも嫁もいないんだが。れいん、お前今日から俺の娘に
ならねぇか?」
 シゲは、れいんの顔を覗きこんで言った。
 れいんはシゲの目から視線をずらさなかったが、言葉は発さなかった。
「嫌か?」
 シゲの言葉に、れいんは首を振った。
「…お父さんって……」
「ん?」
「…呼んでもいい?」
 れいんは、溢すように言った。
「当たり前じゃねぇか。なんでそんなことを聞くんだ?」
「お父さんに『お父さん』って言ったら、ぶたれたの」
 シゲは、れいんの言葉を理解するのに多少時間を要した。
 れいんの頬を両手で挟んでぶにぶにと弄った。
「ああ、いいぞ。好きなだけ呼んでくれい」
 シゲは、やっとそれだけ言った。
「…おとうふぁん」
 ぶにぶにされながら、れいんは言った。

 シゲはれいんを本当の子供のように育てた。
 家は独身男性の部屋らしく汚かったが、れいんと一緒に掃除をした。三日かかって、衛
生的な部屋に整えた。
 食事面も気を遣った。子供のうちの食事がその後を決める、とどこかのテレビで見てい
たシゲは、出来るだけ自炊をして野菜を多めにした。れいんは幸い嫌いなものもアレルギ
ーもなさそうで、何でも食べた。ロクなものを食わせてもらっていなかったのか、最初は
痩せすぎだったが、段々バランスのいい体になっていった。
 タバコも止めた。競馬中継の時以外は。
「あー畜生! 近藤のクソガキ、またヴィップ負けさせやがった!」
 シゲは大抵負けるので、タバコなしではストレスが溜まってしょうがなかったのである。
「お父さん、あの黄色いお馬さん応援してたの?」
「栗毛ってんだありゃ。単勝一万買って応援したよお。カミヤマじゃ旨みがねぇんだよな
ー」
 お父さん、お馬さんが好きなんだ。れいんは思った。

 時間は瞬く間に流れ――れいんは中学三年生の冬を迎えていた。
 志望校も定まり、れいんは勉強に日々明け暮れた。
 勉強に集中する余り、れいんはシゲと顔を合わす機会を減らしていた。ただでさえ反抗期
でもあったため、れいんが一日のうちシゲの姿を見る時間は三〇分もなかった。
「れいん」
 中学に上がって、れいんには自分の部屋が与えられた。部屋といっても、かつてシゲが物
置き場に使っていた極々小さい部屋であったが。
「ごめん、入ってこないで。お父さん、今酒臭いよ」
「お前に今、謝りたいことがある」
 謝りたいこと? れいんは、首を回してシゲの方を見た。
 シゲは年のせいか、大分痩せてきていた。食べる量はかなり減っているのに酒の量は寧ろ
増えていた。れいんは微妙にそれが引っ掛かってはいたが、今は自分のこと以外に構ってい
る暇は無かったのだ。
「ああ。謝りたいことが」
「何かあったっけ」
「すまんな、滑り止め受けさせてやれなくて」
「そんなこと? 大丈夫よ、受かるわ」
「俺の稼ぎがもっとありゃあなあ……」
「いいって」
「競馬で損した分を貯金に当ててたとしたら、受けさせてやれたろうなあ」
「もう! いいってば!」
「すまんな」
 腹が立ったれいんは、首を正面に戻して再び問題集を見据えた。
 背後でどさ、と音がしたのはその直後だった。
 れいんは我慢の限界を超え、立ち上がった。そして体を回して怒鳴ろうとした。
「おと――」
 シゲが倒れていた。

 シゲは某病院に運び込まれた。診断と応急処置を終えた後、担当医はれいんに話を始めた。
「単刀直入に言われてもらいますと、食道ガンです。それも末期の」
「…ガン?」
「はい。余命は幾許もありません」
 れいんは、空虚な顔付きだった。
「死ぬ?」
「意識を失うほど酷い状態ということは、体には相当な激痛が走っていたのでしょう。その痛
みに耐えてしまっていたんですね、お父さんは。あなたから見て、何かお父さんに異変は見ら
れませんでしたか?」
「いへん……ああ、ありました。ありましたね。今思えば。ご飯食べなくなったのにお酒の量
は増えたり。そこでおかしいと思うのが普通ですよね。明らかに正常じゃないですもん。気付
いてたんですよ、あたし。気付いてたんです。気付いていたのに、なんで……」
「娘さん、落ち着いて」
「あたしのせいでっ、お父さんが! 死んじゃうんですか!?」
 れいんは、涙と共に叫びを発した。
 そして、脱力した。目は虚ろだった。
 担当医は、れいんの肩に手を置いて言う。
「お母さんは、いませんか?」
「あたし、お父さんに拾われたんです。だから、いません」
 茫然自失の面持ちで、れいんはそう言った。
「拾われ子……そうですか。では、芦原さんのご両親に連絡して下さい」
「…お父さんの、だから……お爺ちゃんと、お婆ちゃん?」
 担当医は頷いた。

 それから数日後、シゲは死んだ。
 れいんは聞かされていなかったが、シゲの両親はある地方では有数の有力者で、シゲはそこか
ら勘当された男だった。両親はれいんを見ると、卑しい笑いを浮かべて言った。
「葬式は開いてやる。墓も立ててやる。それ以外は知らん」

 れいんは、こうしてまた元の捨て犬に戻った。

「――人なんてあっけない」
「え?」
 れいんが急に脈絡もないことを言ったので、雄一は聞き返した。
 れいんは笑顔を作った。
「な、なんだよ」
 そして、背伸びして雄一の耳元で言った。
「生理がこないの」
 それを聞いた途端、雄一は全身引き攣りを起こしてしまった。
 その様子を見て、今度は悪戯っぽい笑顔になって、
「嘘だよ!」
 と言った
「まだ一ヶ月経ってないもん、くるわけないよ」
 正確には約二十八日後だけど。と付け加えた。
 雄一は安心して、そして歯軋りした。
「お前、最悪」
 れいんはそれを無視して、あ、と短く声を上げた。
「雄一、知ってる? ヴィップの仔が明日GⅠに出るんだよ!」
「何それ?」
 雄一は言った。
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