俺達は走った。二人並んで、イザナミとイザナギのように。振り向けばきっと塩の柱になってしまうんだろう。
追いかけてきているはずのあの血まみれの看護婦姿の何者かを振り返ることもせず、ただ一心に走った。
こんなに走ったのはきっと、いつか二人で畑から収穫前のすいかを盗んで逃げた時以来だろう。首尾よく逃げおおせはしたが、すいかはまだ全然熟してなくて、割っても半分以上が白いままでとても食べられるものじゃなかった。それを見るなり急に二人揃って不機嫌になって喧嘩したのをよく覚えている。
あの頃は、喧嘩をしても次の日にはまた当然の顔をして遊んでいた。
心理学の本によると、大人になるほど一度動いた感情は元に戻りづらいのだという。子供は何か嫌なことがあっても、その瑞々しい反発力ですぐに元の気分に戻ることができる。だけど大人になるにつれて、一度感情が動くたびにたわんでいった俺たちの心が、やがてどこかで元に戻れなくなって、離れ離れのままになってしまったのかもしれない。
離れるのには時間がかかる。もとに戻るのは、もっと時間がかかった。中学生活三年まるごと。その間俺と彼女はずっとまるで他人同士だったんだ。
そんなことを考えているうちに気がつけば俺達は病院の入り口付近まで戻ってきていた。外の光が見える。どうも必死で走っている最中というのは、脳味噌がちょっとした酸欠状態になって思わぬとこへ意識が飛んでしまうらしい。
あと少し。足元の瓦礫飛び越えればもう出口。
なんて思ってたら。
リョーコが派手な音立てて瓦礫につまずいた。一塁へのヘッドスライディングみたいに勢い良く滑り込む形で彼女は地面に倒れこんだ。
「うー、うー……」
立ち上がろうにももう足に力が入らないみたいで、恐ろしさとか悔しさとかいろんな気持ちが入り交じってるのか、無理やり泣き声を押し殺してるせいでまるで猿の赤ん坊が絞め殺されてるみたいなヘンな音を出している。
彼女のことがこんなに可愛く見えたことはない。
俺は、そんな彼女に駆け寄って、そっと抱きあげ――ようとしたところで不穏な気配に気がついた。何かがぼんやりと光った。そこで俺はピンときた。
「おいこらそこで見てるバカども」
つかつかと歩み寄る。携帯のカメラを構えたままの春原と、馬鹿が約二名。つまり今朝来なかった例の三人だった。
決定的なことに、春原はどこで入手してきたのか、看護婦の格好をしていて、頭から血糊のつもりか赤いペンキのようなものを被っている。
リョーコは事情が飲み込めないようで、ばかみたいに口を半開きにして三人を見たりこっちを見たり落ち着きがない。
「どどどどういうこと?」
「見りゃわかるだろ。俺たちダマされたんだよ」
「ドッキリだいせいこー!」
春原が猛々しいガッツポーズを見せた。なんだそりゃ。その後ろでバツが悪そうにもじもじしてる二人の男は本当にマヌケに見えた。
はしゃぐ春原を別として、流れる空気は本当に冷たい。上映中の映画のスクリーンが急に破れ落ちてしまったような、そういう興ざめた空気だ。
ゆっくりとリョーコが立ち上がる。まるで阿修羅のごとき表情。ゆっくりと立ち上がり、ゆっくりと三人に向き直ると、彼らをびしっと指さして、
「よし、そこに並べ」
有無を言わさぬ口調で、三人を一列に並ばせた。
つかつかと歩み寄って、ダサオにビンタ。
「ぐぁっ」
ノビにビンタ。
「痛っ」
春原にもビンタ――せずに、そっと彼女の額を撫でた。安堵したように微笑んでリョーコの顔を見る春原の額に――強烈なデコピン。
「いだだだいだいよぅ……」
「帰ろう」
リョーコは俺の手をとって、つかつかと歩き始めた。
えーっと。
たぶん怒りのあまりわけがわからなくなっているのだろうけど、これはつまり、はたから見ればまごうことなく、お手手つないで仲良く、って状態なわけなのだけど。
ま、いっか。
そういうわけで帰宅して、あたりはもう夕闇に包まれ始めていて、今日は散々だったな、って俺が言うと、彼女も、うん、なんて頷いたりして、それでお別れ、と思ったら、なぜだかリョーコは俺の家までついてきた。
「何か用?」
「まだ早い」
「もう六時だけど」
「日は沈んでないもん」
そういうわけで久しぶりに、本当に久しぶりにリョーコさんが俺の部屋に上がりこむということになったのだった。あのよくわからないメイドは、たぶん今夜は来ないだろう。その点は安心だった。リョーコさんがあんな俺の妄想を具現化したみたいな生き物を目にしたらきっと失神遊ばれてしまうだろう。嘘だけど。
とかなんとか考えながらも、俺はやはり緊張していた。だって、今までメイド姿の彼女は、架空の存在だなんて設定だからこの部屋に存在できていたようなものなわけで、実物の彼女が来るなんて、想定もしていなかった。
「おかえり。あれ、リョーコちゃん。こんばんは」
姉は意外そうな顔で俺たちを出迎えた。
「こんばんは、どうも」
リョーコは小さく頭を下げる。なんでか緊張しているみたいだった。
「いやいやどうも、うちのケンジがどうもどうも」
なんて姉はよくわからないことを言いながらへらへら頭を下げている。
階段を上がる俺たち二人の背中に向かって、
「うまくやったね」
って小さく呟いたのが聞こえた。どちらがうまくやったのかは、よくわからなかった。
階段を上がる一秒一秒が永遠にも思えた。なんて言ったら大袈裟だけど、一秒が二秒に感じられたのは本当のことだ。本当に頭の中が真っ白になりかけていた。一体彼女とふたりきりで、何を話せばいいのか? どういう態度で接したらいいんだ? あのメイドのことは言うべきなのか? そもそも、なんで彼女は俺の部屋に?
そんなことを考え考えしながら俺が部屋の扉を開けるなり、彼女はよく慣れたご様子であのメイドのお気に入りの座布団を引っ張り出して、とてもとてもリラックスして、本棚から迷わず一冊の漫画を引っ張り出して読み始めた。
その漫画は、昨日メイドが読んでいた続きに違いなかった。
それで俺は、急に気が抜けて、だけど、なんだかちょっとだけ、嬉しくなったりした。