祖母の家の近くには小さな森がこんもりと茂っている。その外れには古ぼけた井戸がある。あんなものとっくに枯れてしまったよ、と祖母は言う。だからあまり近寄らないようにな、とも。
けれどそこは木々に囲まれて、日溜まりの温かい、とても静かな場所だから、晴れの日にたびたび訪れては、石の壁にもたれて本を読んだり、昼寝したり、そんなことをして時間を潰していた。
○
森の中の日溜まりに、白いテーブルが置かれている。その上にはやはり白いテーブルクロスがかけられて、並んでいるのは二杯のティーカップだ。中身はミルクティーだが、その銘柄はよく分からない。ダージリンともアールグレイとも違う。嗅ぐと笹のような香りがした。その隣には、我が家のお稲荷さんが超然として居座っている。
どうにも奇妙な光景だった。目の前の、お稲荷さんだけをもぐもぐと食べ続ける少女の存在もまた然りだった。喉は渇かないのだろうか。紅茶には手もつけない。脇目もふらない。なぜだ。こんなにもおいしいのに。
「なこ。お茶は飲まないのかい?」
たずねると、なこは口いっぱいの米粒を音と共に嚥下してから、
「きみも意地がわるいね。ひとついいことを教えてあげよう。……お稲荷さんと紅茶は、あわない」
とてつもないほど箴言だった。それはまさしく真理だった。お稲荷さんはおいしい。紅茶もおいしい。しかし、ふたつが混じり合うとたちまちに宇宙だった。
「うん。僕もそう思っていたんだ。けれど、それをどっかの誰かさんが」
「……もうひとついいことを教えてあげよう。口っていうのはすべからく災いのもとだ」
少女はそう言って、手に持っていたお稲荷さんに噛みつくと、勢いよく咀嚼する。そうして、身体を伸ばすと、ぽかんと見つめる僕との距離を一気に閉じていく。唇と唇がふれて、はっとした瞬間、甘酸っぱい物体が大量になだれ込んでくる。……お稲荷さんだ。独自の芳香、独自の味覚が、さっきまで飲んでいた紅茶の残り香とまじりあって、口いっぱいに魔界が溢れた。それはもう酷い味だった。思わず吹き出しそうになるのを唇で閉じ込める。それが失策で、行き詰まったエネルギーが等比級数的に跳ね上がり、口内の圧力が急速に高まった。結果、逃げ場を求めるなにもかもが鼻から勢いよく噴出した。テーブルに嵐が吹いた。悪夢だった。
「あはははは」
声をあげて笑う少女に、僕は笑ってみせる。いかにも苦笑している風に笑ってみせる。けれど表情の裏、脳髄の奧では、まろやかなマズみと、唇のやわらかい感触と、散らかった米粒とが溶けあって、そこいら中にとびちって、シナプスをしっちゃかめっちゃかにかき乱していた。
――そもそも、なんでこんなことになっているんだっけ?
混乱し、霧散した思考を再び系統づけるために、僕は記憶を追っていく。
場面は今日の朝に飛ぶ。
○
「やあ。今日も来たよ」
「うん。きっと来ると思って、持ってきたんだ。ご希望の品だよ」
「おおお。そ、それはお稲荷さん!」
やっぱり真昼の出来事だった。井戸になこが来て、僕はタッパーを取り出した。中には黄金色の俵が四つ詰まっている。一つは自分で食べ、残り三つはなこにあげよう、とそう思った。少女は眼を輝かせて、瞳の黄昏が深くなっている。持ってきてよかった、とそう思った。
「わあ。まさかまた食べることが出来るなんて。ここは天国だ。夢にまでみたユートピアだ」
胸の前で手を合わせ、ぽわん、とした顔つきのなこ。呆けた表情は神に祈る巫女にも似て、穢れなく澄み切って荘厳だった。清らかな色気を孕んだ、わずかに開いた口元が特に目を惹いた。その端からよだれが垂れた。肌を伝い、顎の先から雫となって、ぽたりと落ちた。全てが台無しだった。
顔を袖でぬぐいながら、なこは言う。
「あのあのあのさ、ぼくも持ってきたかったものがあるんだけど」
「持ってきたかった?」
「ちょっと重くてさ。よかったら取りに来て欲しいんだけど。お稲荷さんはその後で食べよう」
「いいけど。でも取りに来て欲しいものって?」
「テーブル」
「テーブル?」
予想外の解答に、思わずおうむがえしだ。テーブル?
「すごくおいしい紅茶があるんだ。アールグレイともダージリンとも違う、不思議な香りのお茶さ。それを飲もう。ここで飲もう。ここはぽかぽかあたたかい場所だから、きっと素敵だよ」
「で、テーブル?」
「お茶会にはテーブルが必要だろ」
「ああ、なるほど」
なこの言葉は魔力をもつ。声帯の振動数が関係しているのだろうか。NO、と言わせない異常な説得力があった。
だからつい納得してしまう。これが後になって響く。それはまた記す。
「でも、紅茶にお稲荷さんは、その、あわないだろう?」
「大丈夫。とてもおいしい紅茶だから。そしてそのタッパーの中身は、とてもおいしいお稲荷さんだ。おいしいもの同士、あわない道理はないだろう」
「うん、たしかに」
これにもつい納得してしまう。やはり後になって響く。それは冒頭に記した通りだ。
「そういうわけで、じゃあ行こう」
「行きましょう」
少女が森に入る。その後ろをついていく。明るい井戸の周辺とは違い、森の中は鬱蒼としている。薄ら暗くて煩雑としている。足下には落ち葉が堆積して、踏むとぱりぱり砕けていく。その下は湿った腐葉土で、無数の虫たちが這い回っている。
どこかからチチチ、と鳥の鳴き声がした。その時僕は、鳥が歌う、という表現が単なる比喩でない厳然たる事実であることを知った。
風が吹くと、木の葉の天井がさんざめいた。ざわざわと波をたてた。葉擦れの音が軽快なステップで鼓膜を弾いた。
僕は自然の中にいるのだった。そうして、息をしているのだった。ここはそういう場所だった。
「そういえば、森には入ったことなかったっけな」
ひとり、呟く。
「え? どうしたの?」
ひとりごとが聞こえたのか、先を行くなこがこちらを振り向いた。
「ううん。なんでもない」
「そかそか、ならいいんだけど。そんな遠くもないし、ちゃちゃっと行っちゃおうよ」
言葉通り、彼女は迷い無くはきはきと進む。一方、僕はこの自然に感動してしまっているから、あたりをきょろきょろ見回して、そのせいで歩みが遅れる。遅れるとたちまち少女の姿が消える。木にまぎれてしまう。慌てて走ってついていく。そんなことを何度か繰りかえして、五回目の時のことだ。
気がつけば、どれだけ走ってもなこが見えない。一度止まって耳をすましてみた。足音は聞こえない。ただ茫漠と木々が立ち並んでいるだけだ。
はぐれた。
つまりはそういうことだった。
「そうだ。そうだよ。きみははぐれた! あなたははぐれた! あはははは。はぐれた! おまえはもうあいつには会えないし、あいつはもうおまえには会えない。つまりはそういうことなんだ、このきちがいめ。ざまあみろ。ざまあみろ!」
僕はひとりだった。森の中、どこまでもひとりだった。
けれども不思議と平気だった。むしろこれでよかったのだ、とすら思った。頭の片隅に、どうしてなんとも思わないのか、焦らなくてよいのか、すぐになこの後を追わなければ、と考える僕がいた。その反対側に、はやく東へいかなくては、急がなくてはいけない、いざ、忘れられた塔へ、と考える僕がいた。
不思議だなあ、不思議だなあ、と呟きながら歩いた。呟きながらも、なにが不思議なのかさっぱりわからなくて、それがとにかく不安だった。すぐ背後に虚無がうろついているかのような不安だった。意識が黒い色彩だった。原色で塗りたてられて、雑な仕上げでところどころに穴があった。穴はある種の眼球だった。僕を見ていた。見返すとまばたきをした。長いまつげに覆われているのは、夜明けのような虹彩だった。宇宙の淡い青色だった。あの瞳はなんなのだろう。どこか、すこし、なこに似ている……。そんなことを思った気がした。気がしただけだった。僕は歩いていた。
「歩け。歩け。レミング鼠のように歩け! きみに見せたいものがあるんだ。ぜひとも見せたいものがあるんだ。きみは思い出さなければいけないんだ。森の中に入ったことがない? そんなわけあるものか! 歩け。歩け。いざ、忘れられた塔へ! さあ。さあさあさあ!」
何時間かたって――もしくは数瞬のうちに――、いきなり開けたところにでた。そこは地平線がまっすぐに広がる巨大な草原だった。その彼方になにか巨大なものが見えた。あれはなんだ。天にまで届く偉容だった。真っ白な外壁が無秩序に組み合わされて、ひとつの曼荼羅を形作っていた。あれはなんだ。それは王宮だった。なによりも壮麗でなによりも壮大な、もっとも古い王宮のひとつだった。あれはなんだ。
「……忘れられた、塔?」
「そうさ。そうだよ。あれこそがまさにそうだ。覚えている者の数少ない世界の果てさ。さあ、中に入りなよ。きみは思い出さなければならない」
誰かの声が聞こえた気がした。僕は引き寄せられるように王宮へと近づいていった。ふらふら、ふらふらと近づいていった。