「俺の真名は知っているな?」
 空気中から集められた水分を鞭としてしならせ、三本あるそれを一斉に振るったレイスが確認を取るように呟く。
「グラシュティン、だっけ」
 風の羽を具現させたシェリアが、手足を折り曲げて空中を見えない壁を蹴るように跳び回り水鞭を回避しつつ応じる。
 水棲のゴブリン、民間伝承として伝えられるケルトの妖精グラシュティン。それがレイスという人外の本来の名前だった。
 いまひとつ整合性の取れない説が多々あるこの妖精は、水辺を縄張りとして時折人里へ降りて人間に何かしらの悪事や悪戯を働くと云われている。
 本来のグラシュティンからかけ離れた正しい品性と知性を身に着けたのは個体差だとして、それでもレイスは水棲の妖精としてしっかりと能力を所有していた。
 地水火風、西洋四大属性の内の水に高い適性を持つレイスの水が空中を飛び跳ねるシェリアを追って様々な軌道を描くが、シェリアはそれをものともせずに軽く片手を振るう。
「“飛天ひてんに集え、荒ぶ斬風きりかぜっ”」
 普段のシェリアらしからぬ小難しい詠唱を、思い出すように諳んじて風に性質を加える。身に纏う吹き荒ぶ風が一部鋭い切れ味を伴って斬撃と化し、それらが水鞭を裂いて空に散らした。
「風の精霊に愛された加護は、この世界においても十全というわけか…」
 打ち消された水を再度集めつつ、レイスと一定の距離を置いてふわりと地に降り立ったシェリアを見据える。
 木々や花々、澄んだ水場や自然の中には微々たる力を持った属性の象徴が存在する。それらは精霊種と呼ばれ、本来であれば個々ではたいした力も無い脆弱な人外である。
 しかしこれらは集い力を合わせることで属性を結集し強大な力とすることも出来る。東洋においてそれは五大属性、西洋では四大属性として扱われ、退魔師や陰陽師なども古来からその力を借りて五行を取り扱ってきた。
 特に自然と密接に関わってきた妖精種とは友好的な関係を築いており、妖精の属性掌握能力はここから端を発している。
 そんな中でも、特に特定の精霊に愛される特殊な妖精というものがいて、そういった妖精は加護持ちとして他よりもより強く高く精霊の力を借り受けられる。
 風精に好かれたシェリアが、まさにその加護持ちであった。その力の才覚たるや、出自の由来から水の扱いに長けたレイスや金行を得手とするアルはもちろん、下手をすれば全ての属性に高い適性を持った妖精王をすら凌駕する可能性を秘めるとされている。
 もっとも、レイスを含む全ての妖精達は未だにシェリアの全力というものを見たことがなかったが。
「レイスが水の使い手グラシュティンでも、あたしは負けにゃい。みんにゃにわかってもらえるまで、あたしは負けられにゃいから」
「……何を、分かれというのだ」
 依然として纏う風を解除せず戦う姿勢を崩さないシェリアに、幾分か疲れた表情のレイスが疑問を投ずる。
「シェリア、お前は何が気に入らない。何故わからない。神門旭は到底許すことの出来ない大罪を犯した。ただそれだけの事実をどうして許容しない」
「だからー!それが変にゃんだってばっ。どうしてアキラがそんにゃことしたのかって、訊いてあげにゃいの!?お話もしにゃいで、それでつかまえてひどいことしておしまいにゃんて、ぜったいにおかしいんだから!」
「いかな理由を持ち出したとて、それが免罪符として通じるわけがないだろう…!」
 憤怒の一端を見せたレイスが周囲で圧縮した水を砲弾、斬撃、水鞭と分けて撃ち出す。再び空を跳んだシェリアが空中戦へ持ち込む。
「あの方を!人間の憎悪に晒して!神門旭がどれほど彼女の身を危険にさせたかお前はわからないだろう!俺は知っているぞ、人間の醜悪さが、彼女へもたらした数々の害を」
 怒りに滾るレイスの攻撃は、雑になるどころかさらに鋭さを増していた。シェリアの風で跳ぶ軌道を読んで、移動先へ的確に水の猛攻を先回りさせてくる。シェリアから余裕が奪われていく。
「特異家系とかいったか、人間共の不毛な争いに巻き込まれ、人の世で傷ついた彼女は神門旭という存在のせいで大切な力を失った!もう…もう彼女は妖精としての力の一部を完全に失ってしまったんだぞ!!」
「っ!んぅっ!」
 移動を読まれた攻撃で動きを止めてしまったシェリアへ、上下左右全方位から水の圧迫が押し寄せる。両手を広げ解放した絶風によって一瞬水の圧力を弱めたシェリアが包囲から脱出するが、その背後からはもう次の攻撃が肉迫していた。
「わっ」
 津波の如く大質量の水が空一面を覆ってシェリアを呑み込む。当然のようにシェリアへ殺意を向けているわけではないレイスは、その水に取り込まれたであろうシェリアを緊縛すべく掲げた片手をぐっと握る。
 無造作に荒れ狂っていた水が、巨大な球の形となって空中に浮かび上がるのを見て、きつく表情を引き締めたレイスが吐き捨てるように、
「……だから神門旭は大罪を犯したというのだ。ヤツという存在がいなければ彼女は幸福に生きられた。少なくとも、彼女がヤツの為に泣いて哀しみを露わにすることなどは決してなかった。なかったはずだった…ッ」
 奥歯を強く噛むレイスが、勝負はついたと言わんばかりに視線を空から地上へ戻す。殺すつもりではなくとも、もうしばらくはあの水球の中で頭を冷やさせた方がいいだろうと判断したが故の処置だった。
 そんなレイスの後頭部へ、刀が切っ先を向けて飛来した。
「っ、どこまでも姑息な男だ、貴様は!」
 一息ついた瞬間を狙い澄ました一投を間一髪のところで水の鞭で弾いたレイスが、憎々しいかつての同胞を強い眼差しで睨み、その相手であるアルは片手で投擲した視線のまま横目でレイスを可笑しげに眺める。
 その視線は、まるで鏡合わせの自分の姿が滑稽だと嘲笑するかのような自虐さを孕んでいた。
 自分の武器を手放して、今まさにラバーからの土の攻撃に噛み砕かれようとするその間際。アルが眼前の土砂を無視して人差し指をレイスへ向け、忠告を与える。
「よう正義漢気取り、気を付けろよ。その感情にくしみ―――渦巻き過ぎると『反転お れ』になるぜ?」
 瞬きの内に膨大な量の土や岩石が降り注ぎアルの姿が消えて、あとには土石で積み上げられた小山があるだけになった。
 しばしアルの言葉を受けて茫然としていたレイスだが、ふと制御していた水球から僅かな振動が伝わるのを感じ取り、ばっと上空を扇ぐ。
「…“虚空ぼぶうぶぇあば烈風べっぶう!”」
 水中でごぼごぼと篭った声で唱え、水球の外側から水を突き破って中心の猫耳少女へ集合した風が内側から暴風を撒き散らして水球を喰い破る。
 制御を強引に引き千切られ、高空で爆ぜた水球が散らばり土砂降りとして数秒周囲一帯の地に叩きつけられる。
(不意打ちで気が逸れた隙を狙われたか。アルめ…)
 あの戦闘狂がこの展開を予期して刀を投げ飛ばしたのかどうかは不明だが、現実にこうしてアルの一投はシェリアの束縛脱出に貢献されている。あの裏切者の言葉にいくらか動揺を露わにしてしまった自分の不甲斐なさに辟易しつつ、水球から舞い戻った全身ずぶ濡れのシェリアと相対す。
「シュウのお母さんには会ったよ、あたしも」
 肌に張り付いた肩までの黒髪が多分に吸った水を両手で絞って払いながら、シェリアは神門宅へ行った時にあった旭の妻のことを思い出す。
「レイスはそんにゃこと言うけど、あのひとは幸せそうだったよ。でも、アキラとシュウがいにゃくにゃるかもしれにゃくて、悲しそうだった」
 髪に次いで白ワンピースの裾をぎゅうと絞りながらも、自分と同い年か下手をすればそれより下に見えなくもない少女の容姿をした彼女の表情を思い返す。
「アキラさえいにゃければ、にゃんてぜったいだめだよレイス。アキラがいたからシュウがいて、だからあのひとは幸せにゃんだよ、きっと」
 またしても激情に流されて口を開きかけたレイスより先にシェリアが続ける。
「あのひとが妖精界にいれば幸せだったにゃんて、それはレイスのわがままだよ!あのひとはここにいにゃくたってちゃんと幸せに生きてる、生きてたんだよ!それを邪魔したのがレイス…ううん、『イルダーナあたしたち』にゃんだ!」
「…な」
「だからアキラをかえして!アキラは悪いことしてにゃい。だってあのひとはその『たいざい』ってののおかげで幸せににゃれたんだもん」
 シェリアには色恋沙汰はよくわからない。好き合う男と女が一緒にいることでどうしてそこまで幸せになれるのかもよくわかっていない。
 でも、特定の誰かと一緒にいる時に心が満たされて、とても居心地が良いことは知っている。
 それは同じ組織の一員だったり、兄姉のように慕う人間の少年や少女だったり、…いつでも元気付けてくれる悪霊に憑かれた少年だったりと様々だが。
 とにかく、シェリアにはそれを邪魔することが正しいことだとはどうしても思えなかったのだ。

「アはハハハはッ、いいぞ猫娘!!お前今いいこと言ったッ!!」

 土石の山の中から大笑いする声が響き、勘付いたラバーが動いたがもう遅い。
 ズバンッ!!と、山を斬り裂いて血だらけの青年が姿を現した。その手には、先程手放した名刀童子切安綱ではないもう一本背負っていた刀が引き抜かれている。
 褐色の肌に鮮血の朱色が混じるアルが、血を滴らせながら片刃の剣を振って叫ぶ。
「覚えとけシェリア!こういう人の恋路を邪魔する馬鹿はな!馬に蹴られて死んじまえばいい連中なのさッ!!」
「へーにゃるほどっ。ん、でも今馬にゃんていにゃいよー!?」
「だったらの手で張り倒してやれ!俺はコイツでバッサリやる」
 左手で握り直した剣を構え、木槌を手に中腰の姿勢を取ったラバーへ凄惨な笑みを返す。
「禍々しい武器だ、また気持ちの悪い物を創りおってからに…!」
「おいおい、テメエも一応職人だろ?なら自作で力作の一品を馬鹿にされる気分くらい察してくれや。俺だって一応鍛師かなちなんだからよ」
 瘴気すら噴き出しかねない気配を放つ剣を、しかしアルは嫌厭するように体から離して遠ざける。
 アルと出自と同じくする北欧の剣。その由来を忠実に再現したからこそ、この刃には魔性が宿るとされる。
「“不耗魔剣ティルヴィング”だ。安綱に比べりゃチャチな出来だが、ジジイの老骨くれえなら断ち切れるかね」
 かの鬼神ですら認めた戦闘狂っぷりを証明するかのように瞳に剣呑な色を乗せ、全身の傷を無いものとして無視する血だらけの悪魔が、背後の敵を猫耳少女に任せて中年の妖精にあり余る敵意を向けてただ笑う。